四旬節第4主日 ヨハネ9章1~41節

「 四旬節第4主日 ヨハネ9章1~41節」

教会共同体としてミサを祝えない状況が続いています。そのような時であるからこそ、わたしたちはミサの中で通常、みことばの食卓と聖体の食卓で養われていることを思いだし、聖書を読み、黙想することで、みことばによって養われることの重要性を意識していきたいと思います。

今日の朗読個所は、生まれつき目の見えない人が見えるようになる個所が朗読されます。ここでひとつの大きなテーマは、罪とは何かということです。弟子たちがイエスに、「先生、この人が生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか」と問うています。今回のコロナウイルスの感染で主日のミサが中止されています。そして、多くの教区からの文書で、主日のミサの義務を免除しますという表現が出てきます。その背景にあるのは、主日のミサに参加しないのは罪であるという考え方に基づいています。それでは、主日のミサに参加しないことは罪なのでしょうか。イエスさまが罪を犯す機会としてミサを制定されたのでしょうか。ここに、根本的な罪についての無知、また誤った理解が教会の中に広まっていることが分かります。罪を犯すと天国に行けないというあまりにも幼稚な教えが、教会の中に広がった結果です。

わたしたちも、弟子たちが「この人が生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか」と問うているのと同じレベルではないでしょうか。ユダヤ人たちは目が見えないということがいけないこと、神からの罰だと考えていたからです。しかしそれに対してイエスは、「…罪を犯したからではない。神の業がこの人に現れるためである」と答えます。神の業については、ヨハネ6章29節に「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である」とはっきりと述べられています。つまり、この人が生まれつき目が見えなかったのは、イエスさまを信じること、イエスさまと出会うためであるということです。ここで、すべてのことがはっきりしてきます。わたしたちが受けている状況、それが生まれつきのものであれ、生まれた後にわたしが被ったことであれ、それが人間の視点からすればよいもであっても、よいものでなくても、受け入れがたく、自力ではどうすることもできないもであったとしても、それは唯々、イエスさまを信じるため、イエスさまと出会うためのチャンスであるということです。これ以上に、明確な答えはありません。だから、ミサも同じです。ミサに参加するのはイエスさまを益々信じ、イエスさまと出会うため以外のものではありません。今、教会共同体としてミサが行えない状況が続いています。しかし、わたしたちは今日のみことばを通して、わたしたちが置かれている如何なる状況であっても、それが非常に劣悪で過酷なものであったとしても、またそれがわたしたちが納得できないもの、たとえそれがわたしたちの罪であったとしても、それは唯々イエスさまを信じ、イエスさまと出会うための契機になるのだということです。わたしたちの外にあるものも内にあるものも、いかなるものもわたしとイエスさまとの出会いを妨げ得るものは何もないということです。これは不正義や悪を容認することではなく、自分のあり方、他者と社会との自分の関りを問うことでもあるのです。

ただ、もし妨げがあるとしたら、「我々も見えないということか」というファリサイ人に、「見えなかったのであれば罪はなかったろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている」ことこそが妨げであり、真の罪であると指摘されています。わたしたちがまた教会が、イエスさまのことを分かったつもり、見えているつもりになって、自分たちこそ真理を所有し、正義を行っており、正しい教えを所有していると思っている傲慢こそが真の罪なのだといえるでしょう。わたしたちは本当にイエスさまのことが見えているのでしょうか。分かったつもり、見えているつもり、問題はないと思っているだけではないでしょうか。今日はまず、わたしの足元を見てみたいと思います。そして、イエスと出会い、その己の姿に気づくとき、その囚われから解放され、そこから新しい人生、福音宣教が始まるのです。

 

2020年03月21日