王であるキリスト ヨハネ18章33~37節(北村師)

王であるキリスト ヨハネ18章33~37節

今日は王であるキリストのお祝い日です。そもそも、王という存在はいかなるものでしょうか。王とは権力と富を一身に掌握し、自分の願いや思いを自らが実現していくことが出来る存在です。わたしたちは、少なからず自分の思いが通り、自分の望みが叶うことで幸福になれるとか、救われると思っているのではないでしょうか。そして、それを生涯求め続けるのが、わたしという存在でしょう。そして、わたしたちは、自分の思い通りにできる自分の小さい王国を築いて、そこに君臨したいというのがわたしたちの願望です。その意味で、ローマ総督のピラトはその代表者でした。それが、家庭であったり、社会であったり、地域であったり、会社であったり、国家であったり、宗教であったりするというのが人間としてどうすることも出来ない現実です。しかし、すべてを自分の思い通りにして、自分の望みを叶えることで、果たして幸福になれるのか、救われるのかを疑っている存在もわたしではないでしょうか。

わたしたちは、“本当のこと”、真実を知りたいのです。なぜなら、わたしたちは自分たちのなかに真実、“まこと”がないことに気づいているからです。いくら富と権力と手に入れても、またいくら科学が進歩しても、また宗教を学んで奥義を極めたとしても、それが真理かどうかわからないし、満たされず分かったつもりになっている自分がいることにも気づいているのでしょう。皆が言っているとか、偉い先生が言っている、教会が教えている等、いくら権威付けをしても、特定の狭い人間の集まりや枠組みのなかでしか通用しないのなら、それが真実であるかどうか分かりません。そもそも、貧富の差、様々な差別や区別、救われる救われないという境界を設けているのであれば、それは本当の意味での真理でもないし救いでもありません。これほど多様化した世界において、富と権力をすべて手に入れたとしても、科学ですべてを説明したとしても、教義ありきで自分の宗教のみの正統性を主張したとしても、世界中の人が等しく救われるということがなければ、本当のもの、真理とは言えないでしょう。そのようなものでは、すべての人間の本当の深い問いに答えたことにはならないのではないでしょうか。カトリック教会では、このような問いをしてはいけないとされてきました。教会が教えていることを、素直に真理として信じることが求められてきました。

当時のユダヤ地方を権力で治めていたのがピラトであり、「真理とは何か」という問いは、ピラトの個人的な問いではなく、実は人類の、いやわたし自身の根源的な問いに他なりません。しかし、わたしたちが自分に真実があると言った時点で、その真実は真理ではなくなったしまいます。人間が言う真理は、どこまでいっても人間の理解した真理でしかないからです。わたしが真理だと思っているようなものは真実ではないし、わたしが救いだと思っているようなものは救いではないのです。いくら科学的にすべてを説明したとしても、富や権力で生活を安定させたとしても、これは教会の教えだということで信じたとしても、頭では納得できるかもしれませんが、わたしの心の深いところには響いてこないのではないでしょうか。

今日読まれた福音で、イエスさまは「わたしは真理について証しするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く(37節)」と言われました。そして、ピラトは「真理とは何か(38節)」と問います。わたしたちは、イエスさまが真理であることは頭では分かっています。しかし、それだけでは、何も分かりません。なぜなら、イエスさまが真理であると言われても、それだけではわたし自身が救われることも、わたしが解放されることもないからです。わたしとは何か、わたしはどこから来て、どこへ行くのか、何のために生まれてきたのか、わたしたちは本当のこと、真実が知りたいのです。

イエスさまは、「真理に属する人は皆、わたしの声を聞く」と言われましたが、その“聞く”ということはどういうことを意味しているのでしょうか。そこら辺に、イエスさまが生涯をかけて証ししようとされた真理についてのヒントがあるように思います。そこで、先ず、イエスさまの聞き方を見てみたいと思います。イエスさまの聞き方は、イエスさまのあり方にあると言えます。ヨハネ福音書の冒頭で、イエスさまは「父のふところにいる」と書かれています。「いまだかって、神を見たものはいない。父のふところにいる独り子である神、その方が神を示された(1:18)」と書かれています。神さまは真理、真実、“まこと”そのものですから、その神さまを示すことが出来るものは、神さまのふところにいた独り子だけだと言われています。そうすると、どうもイエスさまの聞き方というのは、上から一方的に教えを話すとか、また話を拝聴するというのではなく、ふところにいる、“ともにいる”ということにあるように思います。王さまや権力者だったら、自分の願いや思いを実現していくために、一方的に相手に話し、命令するだけでしょう。誰かに聞くということも必要ありません。しかし、ともにいるということなら、同じ土俵に立ってお互いに聞き合う、ある意味では響き合うということではないでしょうか。おそらく、響き合うという言い方の方が正確かもしれません。響き合うというなら、お互いに響き合うものをもっていなければなりません。また響き合うというなら、お互いがあるがままでなければなりません。イエスさまは神さまですから、神さまと響き合うということはおかしなことですが、神学的に納得する説明をするために、御父・御子の区別をしたのでしょう。しかし、イエスさまとわたしたちが響き合う関係であるとしたら、お互いがお互いを必要としているということ、これが真実です。つまり、イエスさまあってのわたしであり、わたしあってのイエスさまです。ですから、何か上から教えを教えてやろうとか、へりくだって恐れ畏んで拝聴するという関係ではないということだと思います。

イエスさまは、自分は人間のいう意味での王ではないと言われました。そして、「わたしの国はこの世には属していない」、つまりわたしの国は、国境というような区別、境がある国ではないと言われました。そこで、イエスさまは「もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない…わたしはあなたがたを友と呼ぶ(ヨハネ15:15)」と言われました。つまり、上から支配者のように、説教者のように、権威者のように、教えるものではない、誰かと誰かを区別するものでもないと言われたのです。わたしは、あなたの友として、響き合うものであると言われたのです。その点については、わたしたち聖職者は大いに反省しなければならないと思います。偉そうにキリスト教を教えるのではない、話すとしたら、話すことで自分もイエスさまに聞かせてもらっているんだ、聞きたいという人がいることで、自分もみことばをともに聞かせていただいているんだ、というお互いが響き合う関り、それがイエスさまとわたしたち、また、わたしたち人間同士の関わりの基本だと思います。

聖書で使われている真理ということばは、アーメンが語源で、アーメンは「そのようである」という意味です。つまり、そこで言われている真理は、“あるがまま”の現実、自然という宇宙の姿そのままを現わしていると言えるでしょう。真理というのは、証明できるような理論や宗教上の教義という意味ではなく、大自然のあるがのままの姿、宇宙の大いなるいのちのいとなみ、それが真理であるということだと思います。仏教では真如と言われますが、イエスさまは、その大いなるいのち、宇宙そのものを体現された方、真実である方であるということでしょう。ですから、イエスさまは決して難しい教えを話すのではなく、「空の鳥を見よ、野の花を見よ」と言われ、ありのままの自然、現実を見ることによって、真実が見えてくると言われたのだと思います。頭で分かるのではなく、魂が響き合うということだと思います。そして、イエスさまの生きざまからも真実が見えてくるということでしょう。ですから、イエスさまについて、頭でいくら学んだこところで何かが分かるわけではありません。イエスさまと出会う、響き合うということがなければ、何もないということだと思います。これが、聞くということの基本であり、真理、真実は探究、学ぶものではなく、目の前にある現実に聞いていくということに尽きると言えるでしょう。これが、キリスト教で言われる祈り、観想の本質でもあるのです。

2021年11月19日