待降節第一主日(伊師)

待降節第一主日 ルカ21・25-28,34-36 

待降節が始まりました。救世主である主が、降誕とともに世の中を完成するために来られるのを待ち、準備するための期間です。教会はこの時期になると、いつも終末と関連した話がなされます。

再び来る時がいつなのか分からないので、常に目を覚まして祈りなさいと言う言葉で私たちに準備するように警告を促しています。目覚めていると言うのは今、ここで私が何をしているのかを意識すると言う意味です。

自分のことでいっぱいの時は、聞くと言うことが困難です。聞かないと主を知ることが 出来ないことですし、訓練を重ねないと行動もできません。聞くということは、言い換えると神様と私たちをつなぎ、そしてその関係を結ぶ唯一のものです。事実、主のことばに“心は燃えていても、肉体は弱い”というのがありますが、私たちの心にしみます。
福音で言われるように、放縦や深酒やお金などのわずらいで心が鈍くなってはいないか、。振り返って見ましょう。そしてその時間を祈りの時間として使ってください。私たちがこの世の中の誘惑の眠りから目を覚ますためには、祈りの中で意識することです。

イエス自身も世の中の欲望と心配と悩みや苦しみに陥らないために、山に登りいつも父である神に祈られました。弟子たちが、「主よ!なぜ私たちは悪霊を追い払うことができないでしょうか」と質問した時、主は「祈りと断食をしないと出来ない」と言われました。

祈りは神様の愛であり、犠牲は隣人に対する愛であり、断食は自分に対する愛であるからです。これらを実践しないで、自分の中にある様々な誘惑の誘いを断ち切ることはできないからです。世が私を誘惑しても、みことばに従って忍耐を持って生き、主が来られる時に喜んでお迎えに行けるよう絶え間なく祈りましょう。

待つと言うことの具体的な表現として待降節の初めに、一つのろうそくの灯がともされて、スタートしました。時間は残り少ないのです。今日からでも体と心を改め、準備すれば喜んで主人を迎えることが出来るでしょう。

今日の朗読にあるように恵みの雨は十分に降っています。わたしたちのすることは、傘を取り除くことです。待降節、それは体と心の準備期間であり、祈りの時間であり、悔い改めの時間であり愛を実践する時間であることを心に留めましょう。

2021年11月27日