待降節第3主日の勧めのことば(尹師)

待降節第三主 ルカ3・10-18

洗礼者ヨハネは光でもなければ、メシアでもなく、預言者ですら、ありませんでした。洗礼者ヨハネは、み言葉を告げる声であり、霊の炎を準備するための水にすぎませんでした。福音宣教者は、「み言葉」と「単なる声」を正しく区別することを知っているのです。

今日の福音を通して、私たちのもとに来られるイエス様をどのように迎えれば良いのか教えてくれます。私たちは何を準備したらよいでしょうか。それは何よりも心を尽くし、謙遜な心で迎えようとする心構えです。

 今日、洗礼者ヨハネは自分自身を指して「わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない」、と自分を低くする謙遜な姿を示します。

ありのまま、それは私たちが模範として学ぶべき姿勢ですし、生き方を通して実践しなければならないことです。

ヨハネは、自分自身の使命と自分の役割をはっきり分かっていました。イエスと自分の役割の違いをわきまえ、忠実に果たすこと、それが彼の偉大さではないでしょうか。

「わたしよりも優れた方が、後から来られる」というヨハネの叫ぶ声は、人類が長い間、待ちに待った方がついに来られるということです。従ってこれからわたしたちのすべての関心は、これから来られるイエス様に集中していくことです。

洗礼の秘跡の一番大きな恵みは、聖霊をいただくことです。それはわたしたちの根本的な変化、すなわち自然な人から神様の子へと新しく生まれることです。

洗礼者ヨハネは、イエス様がその偉大なわざを成し遂げられるように前もって準備されたのです。洗礼者ヨハネが準備した、その土の器にイエス様は生命を吹きかけるために来られるのです。新しい命、生き方です。

ですから、わたしたちが荒れ野で洗礼者ヨハネの叫び声を聞き入れ、罪の赦しのための悔い改めの洗礼を受けるならば、イエス様はヨハネが準備したその道に来られ、わたしたちに新しい命を吹きかけてくださいます。

わたしたちが、荒れ野で叫び続けている洗礼者ヨハネの声に耳を傾け、イエス様が来られる道を見つけることができるように願いながら、恵みの待降節を過ごすことができますよう、ミサの中で祈り願いましょう。

2021年12月15日