2022/02/20 年間第7主日の勧めのことば(北村師)

年間第7主日 ルカ6章27~38節
あなたがたの父があわれみ深いように、あなたがたもあわれみ深い者になりなさい。

今日の福音の箇所は、マタイ福音で「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられたいる。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害するもののために祈りなさい(5:43)」と言われている箇所と並行する箇所です。これは、ユダヤの律法で「隣人を愛し、敵を憎め」と言われていることに対して、イエスさまが新しい教えを述べられた箇所でした。

「隣人を愛し、敵を憎め」と言われていることは、ユダヤ教だけでなく、わたしたちにとっても当たり前となっている価値観です。同胞の権利を守り、敵国を排除すること、また被害者の権利を守り、加害者を罰することなど、わたしたちは普通のこととして考えているのではないでしょうか。そして世界中の法律は、その考えに基づいて定められています。しかしイエスさまは、わたしたちがよい市民としてそれだけに甘んじているのであれば、それなら罪人でも同じことをしていると言われます。イエスさまは「敵を愛しなさい」と言われました。わたしたちの悪口を言うもののために祈り、頬を打つものにもう一方の頬を向け、上着を奪い取るものに下着をも与えなさいと言われます。そんなことがわたしたちに可能なのでしょうか。

イエスさまはその根拠として、天の父のあわれみ深さをもって説明しようとされます。「いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。あなたがたの父があわれみ深いように、あなたがたもあわれみ深いものとなりなさい」と述べ、マタイでは「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい(5:48)」と言われます。天の父のあわれみ深さこそが、天の父の完全性であることが述べられています。わたしたちは、神さまの完全性というと、神さまの全知全能ということを考えます。全知全能ということは、いつでもどこでも自分の思いを叶えることができるということです。わたしたちは、自分の思いや願いが叶うことが幸福であると考えますが、自分の思いや願いが簡単には叶わないことも知っています。ですから人間社会のなかで、多くの人が、自分の思いや願いを実現することができる一握りの権力者やリーダーを目指そうとします。それが現代社会の価値観となっています。

しかし神さまが全知全能である、またその完全性というものは、自分のやりたいこと思うことができるという意味ではなくて、神さまの完全性はいつくしみ、愛そのものであるということがイエスさまによって明らかにされます。つまり神さまの完全性、その本質はいつくしみ、愛そのものであるということなのです。ということは、神さまは、相手をいつくしみ、愛し、ゆるし、自分を与えることしかできないというです。そして、それが神さまの真実の世界のあり様であるということなのです。太陽が善人の上にも、悪人の上にも昇ると言われたことはそういうことだと思います。実はわたしたち人間も、赤ちゃんのとき、その神さまの愛に近いものを体験しています。しかし、だんだん大きくなるに従って条件付きの愛を知るようになります。「~ができたので、誉めてもらった」とか、「~をしたので、認めてもらった」という、「~ができた」「~した」という条件付きの評価を体験すようになっていきます。それが成長する、大人になるということなのでしょう。教育にはそのような要素もありますから、そこで承認欲求が生まれ、競争心も養われ、社会性を身につけていくことが成長だと考えます。一方、わたしたちは、赤ちゃんのときの無条件で愛されたという体験をほとんど覚えていません。ですから愛が無条件であるとか言われても、頭では分かっても、なかなか実感がわきません。しかし体は覚えていますから、そのような愛に触れたときに何か真実に出会ったように感じるのではないでしょうか。

イエスさまは、ご自身がその真実としてこの世界に来られました。その真実を証しするために生まれ、ご自身が真実そのものでおられたわけです。だからイエスさまだけが、神さまの愛、敵を愛し自分を迫害するもののために祈りなさいと教えることができ、そして実際そのようにすることがおできになったのです。イエスさまは、自分を十字架に釘付けにしようとする者たちに、「父よ、彼らをおゆるしください。自分が何をしているのか知らないのです(23:34)」と祈られました。イエスさまは、敵への愛を掟、教えとして説明されたのではありません。イエスさまはご自身をもって教えられたのです。

わたしたち人間は皆、この世に生まれてきたという意味において、無条件の愛を受けて生まれてきています。この世に生まれてきたということ自体が、例えわたしたちが覚えていなくても、無条件の愛を受けたという事実に他ならないからです。確かにわたしたちの頭は、理屈、教えとしては分かっても、イエスさまのいわれる愛、敵への愛というものはなかなか実感できません。しかし、わたしたちの体はその愛を覚えているのではないでしょうか。わたしたちのなかに、イエスさまの愛の痕跡が残っていると言ってもいいでしょう。イエスさまと同じ愛が、同じいのちがわたしたちの魂の深いところに地下水のように流れているのだと思います。ですから、わたしたちがイエスさまのことばに触れるとき、また真実に触れるとき、その愛がわたしのなかで呼び覚まされていくのです。イエスさまの「あなたがたもあわれみ深い者になりなさい」というのは、わたしができるとかできないとかの掟や命令ではなくて、イエスさまのわたしへの愛の呼びかけなのです。

2022年02月18日