2024/05/20 京都ゆかりの「キリシタン武将 内藤如安」を知っていますか。 (田中 憲)

京都ゆかりの「キリシタン武将 内藤如安」を知っていますか。

 田中 憲

3年前、仕事で立ち寄ったJR八木駅の片隅に「八木ゆかりのキリシタン武将 内藤如安」と題した武将が描かれた看板がひっそりと立っており、この人物にふと興味が湧きました。しかも、波乱万丈のキリシタン武将だったのです。

[生い立ち]
当時、既に足利幕府の体制は大きくほころび、将軍家や幕府管領家も全国で広がる戦乱を収められない状況でした。その間隙に幕府内で台頭し将軍や管領を圧倒して畿内に覇権を確立したのが阿波国(徳島県)守護代家出身の三好長慶です。実父は長慶の重臣松永久秀の実弟松永長頼で、当時の丹波守護代内藤国貞の娘婿でした。その国貞は天文 22 年(1553 年)に戦死、同年に実兄貞勝が家督を承継しますが、永禄5年(1562年)には父親が「内藤宗勝」と改名し当主を承継、永禄8年(1565 年)にその宗勝も戦死します。

内藤如安(諱は「貞弘」、後に時期不明で「忠俊」。以下洗礼名の「ジョアン」)は、1550年頃、丹波国守護代(守護職の代官)内藤家の本拠、八木城(南丹市八木町)で生まれています。妹には日本で初の女子修道会「ベアタス」会を創立した内藤ジュリアがいます。ジョアンは10 代後半に困難を抱えて丹波国守護代家当主を承継します。

このようなジョアンの青少年時代に、山口から戦乱を逃れて八木に落ちのび、内藤一門の重臣の妻となった洗礼名カタリナというキリシタン女性がいます。信仰に熱心なカタリナの影響を受けたジョアンは京都の教会へ通うようになり、1564年頃、イエズス会士フロイス神父(又はガスパル・ヴィレラ神父)から洗礼を受けたのは17才か18才のころです。そして、カタリナの夫と異父兄もそれぞれ受洗し同じキリシタンとして家老としてジョアンを支えます。そしてもう一人、イエズス会修道士ロレンソ了斎がいます。彼は八木城を3回訪問しており、天正2年(1574 年)の3回目にフロイスと共に訪問のときは「城には豪華な祭壇が飾られていた。八日間に七十名の兵が、ついで十四名が受礼した」。ジョアンは八木城を丹波国におけるイエズス会布教活動の本拠地しようとしていたことが分かります。

[キリシタン武将として]
1573年、織田信長と将軍足利義昭の衝突に際して、十字架とIHS(イエズス会紋章)の金文字の入った兜に十字架の旗を翻し、2千の軍勢を率いて義昭側に立ちます。

ジョアンが京都へ来たもう一つの目的はイエズス会宣教師やキリシタンの保護もありました。「ジョアン内藤殿がどれほど教会とキリシタンの世話をしたか、・・(フロイスに)丹波のかの城(八木城)に行くことを懇願した。自らの手により書状をしたため、・・・仏僧の僧院を空け、同所に私を宿泊させて警護すること、及び司祭は内藤殿の主君であると考えるべきことを伝えた。」

しかし、義昭は敗北、その後八木城も陥落し、一族や家臣は離散し、ジョアンは義昭が亡命した鞆の浦(岡山県福山市)に身を寄せます。鞆の浦では妻のキリシタン女性マリアと子供3人とともに新たな生活を始めています。ジョアンは30歳前後、全てを失い信仰だけが心の支えでしたが、その信仰についても苦しみを抱えていました。

「彼はそれほどの遠隔の地方(鞆の浦)から都に来ては多くの涙を流しながら(フロイスに)告白した。彼は教会からいとも遠く隔たって異教徒達の間で生活しており、司祭や修道士たちと交わることができず、それをいたく悲しんでいたからであった。」

しかし、将軍義昭に従った教養ある家臣達との交流や学問、とりわけ漢籍や医術などに専念したことは彼の後の人生につながっていきます。

[新たな生活]
天正 16 年(1588 年)、将軍義昭が関白豊臣秀吉と和睦し京都へ帰還。秀吉の九州平定後、キリシタン大名小西行長は肥後国南半国の大名となり、ジョアンを重臣(親類衆・宇土城代)として取り立てます。一家は宇土城下(熊本県宇土市)に移りました。行長は堺の商人出身、領地経営や軍事について畿内の旧領主や武将のもつ経験とキリスト教を共有するジョアンらの精神的な補佐を必要としていたのです。

そんな一家の平穏な生活は、1592年、豊臣秀吉の野望から始まった朝鮮半島出兵(文禄・慶長の役)に巻き込まれていきます。

[文禄の役での大任]
天正 20 年(1592 年)、秀吉は中国明の征服を視野に入れて各大名を動員、小西行長や加藤清正を遠征軍先鋒に命じて15万の大軍を朝鮮半島に差し向けました(文禄の役)。

ジョアンも行長に従軍します。しかし、宗主国の明の参戦以降、戦線は膠着します。

文禄 2 年(1593 年)3 月、明側は沈惟敬、日本側は小西行長が中心となり講和交渉が開始され、両者は共謀し、沈惟敬の部下を秀吉に詫び言を伝える「皇帝からの勅使」に偽装して日本に派遣、これに対し小西行長は漢籍に教養の深いジョアンを答礼使として北京へ派遣し、秀吉が降伏する旨の「関白降表」を偽作して託しました。沈惟敬と小西行長らは、明皇帝と秀吉双方を欺いて戦役の早期終結を画策したのでした。

ジョアンは文禄 3 年(1594 年)12 月、1年4箇月を要して北京に到着し交渉の結果、慶長元年(1596 年)に明から冊封使が派遣されますが偽装が発覚し和平工作は失敗します。激怒した秀吉は、慶長2年(1597 年)、再度朝鮮出兵を命じました(慶長の役)。ジョアンも行長に従軍しますが、慶長3年(1598 年)、秀吉死亡により日本軍は総撤退しこの戦役は終了します。行長やジョアンが望んだ戦役終結がようやく実現したのです。

[再度の流浪、そして迫害]
1600年、関ヶ原の戦いが勃発、主君の行長は西軍に参加して敗北、京都六条河原で処刑されます。宇土城が陥落後、新しい領主の加藤清正はキリシタンに弾圧を行います。ジョアンは、生涯二度目の落城を経験し、家族を抱え、他のキリシタンと同様路頭に迷う貧窮生活、このときジョアンはイエズス会準管区長にあてた手紙にその心境を述べています。

(現代語訳)(加藤清正からの)迫害は日々勢いを増しておりますが、私たちの主なる神のためなら(信仰を貫くため)一命を棄てる覚悟のできている者は多数おります。迫害は当面落ち着く様子もなく、私たちは神を崇敬していますので、どのような試練も危害も耐え忍ぶことを神は認めてくださることと思います。このようなことですので、私たちは、信仰のために命を棄てられた昔の殉教者達の御生涯をほんの僅かでも学ばせていただかねばなりません。

私自身も潔く覚悟を決めて、死に至るまで耐え忍ぶことができるよう、あなた様が祈祷とミサにおいて神にお頼みくださいますようお願いします。(そのようにしていただけるのであれば)この日本にも殉教者ができることになりますが、その手始めが私たちのようなあわれな罪人であることは全く不思議なことであり、このことに思い至ると感動して涙が抑えがたいのです。(姉崎正治「切支丹迫害史の中の人物事績」ジョアンの残存している唯一の手紙)

殉教を覚悟の上で神と信仰のみに生きていく、ジョアンの不断の決意でした。

[救い]
1603 年頃、ジョアン一家は肥後を脱出、時を置かずして移ったのは金沢、肥前のキリシタン大名有馬晴信を介して一家を招いたのは高山右近だったのです。加賀藩に客将として仕えていた右近の尽力で、ジョアンと長男好次は召し抱えられました。ジョアン一家は家族とともに二度目の安住の地を得たことになります。

[再び吹く受難の嵐]
再び受難がやってきます。江戸幕府は慶長17年(1612年)に禁教令を公布、その後「伴天連追放令」を発布し、更に慶長19年には右近とジョアンの一家に対して引き渡し命令が加賀藩に下り、厳冬の北陸路を経て長崎に移送されました。そしてイエズス会やフランシスコ会の神父や修道士、妹ジュリアの京都ベアタス会の修道女らとともに国外追放となり、1箇月にもわたる過酷な旅路の末、マニラに到着しました。現地で大歓迎を受けましたが、盟友右近はマニラ到着からわずか40日後に帰天します。

[新天地マニラにて]
マニラのサン・ミゲル地区に居住したジョアンは健康に恵まれ、イエズス会等の支援を受けながら祈祷と研究とに穏やかな日々を送っています。ジョアンについて「内藤は祈祷と研究とに日を送り、彼は支那の文字に造詣深く若干の宗教書や科学書を日本語に翻訳した。彼は、長い間北京に滞在したがその間に支那の医学について興味を覚え、この問題を取り扱った多数の書籍を将来した。彼はそれを全部翻訳し暇の時には実際に医術を行った。」(シュタイン著「キリシタン大名」) 1626年、マニラに来て12年目、妹ジュリアや家族に看取られて帰天しました。ミサと祈り、人々への奉仕に生きた日々が、ジョアンの生涯の中で一番平和で充実した日々だったといえます。

(後 記)
内藤如安の記録について、キリスト教徒でない方がその記録を丹念に調査されているのが印象的でした。一人の人間がどの信仰・信条であれ、それを貫いて生きることの難しさは現代でも同様であり、戦国時代はなおさらだったと思います。戦国、織豊、徳川の激動の世において律儀に生き信仰を守り抜いた武将として時代を超えてもその生き様には惹き付けるものがあったと思います。このような京都ゆかりのキリスト教徒がいたことだけでもお知りいただければ幸いです。

<参考文献>
1 各務英明『殉教-内藤如安の生涯-』朝日ソノラマ、1988 年
2 福島克彦 「丹波内藤氏と内藤ジョアン」
中西裕樹編 『高山右近 キリシタン大名への新視点』 宮帯出版社、2014 年
3 楠戸義昭「聖書武将の生々流転 豊臣秀吉の朝鮮出兵と内藤如安」 講談社 2000 年
4 「キリシタン大名 布教 政策 信仰の実相」 宮帯出版社 2017 年
5 松田毅一「丹波八木城と内藤如庵について」『COSMICA』VII、1977 年
6 ルイス・フロイス「日本史」 中公文庫
7 別冊歴史読本「戦国13人の名軍師」(第 27 巻7号)福島克彦
楠戸義昭「信仰を貫いた流転の参謀 内藤如安」 平成 14 年
8 「大阪春秋」新年号 第 169 号 特集 「キリシタンたちの戦国おおさか」 2018 年
「内藤ジョアン」(福島克彦)
9 大阪大谷大学歴史文化研究第 19 号「丹波片山家文書と守護代内藤国貞」馬部隆弘
10 「切支丹迫害史中の人物事績」姉崎正治著 「加藤清正のキリシタン迫害」
同文館 昭和5年
11 「高山右近 その霊性をたどる旅」(ドン・ボスコ社)2017 年
12 「現代にひびく右近の霊性」日本カトリック司教協議会列聖列福特別委員会編

2024年05月20日