わたしは主を見ました
シスター山本久美子
主のご復活おめでとうございます。
復活の主日の福音では、マグダラのマリアがイエスの葬られた墓に行った出来事が読まれます(ヨハネ20:1~9)。「週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。」
大きな石で封印されていたはずの墓の石が取りのけてあり、彼女は、「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」と、弟子たちに告げに行きます。イエスの十字架上での死によって打ちひしがれ、まさに暗闇の中にいた彼女の心は、大きな石で塞がれたように、一筋の光さえ見出すことができませんでした。しかし、主の復活は、彼女の心にある闇を一掃し、いのちを与え、彼女の生き方をも一新させました。
復活の主日の福音に続く次の場面で(ヨハネ20:11~)、マグダラのマリアが墓から離れず立ち尽くして泣いていたところに、復活の主が現れました。しかし、マリアはイエスだと気づきません。マリアは、悲しみのあまり、何も見えなくなっていたのでしょうか。イエスの方をふり返っても、またすぐに背を向けてしまいました。しかし、主が彼女の名前で呼びかけられた時、彼女は再びふり返り、主との劇的な出会いが生じたのです。
二度と立ち直れないと思うほどの苦い暗い体験、せめて亡骸でも自分の手元に置いておきたいと思っていた大切な人、「ラボニ」さえわからなくなるような喪失体験、そのような闇からマリアも、イエスと共に立ち上がらせられ、「わたしは主を見ました」と、生き生きと主との出会いを証するほどに変えられたのです。一体彼女の中で何が起きたのでしょうか。復活されたイエスは、咄嗟にご自分にすがりついたマリアに対して、「わたしにすがりつくのはよしなさい」と、マリアをひろく他者に向かって生きる道を示されたのです。
主は、マリアが古い自分や古い世界にこだわらず、それよりも主との新たな出会いを告げ知らせる使命を彼女に託されました。マリア自身も、イエスに人間的にすがったり、依存したりするかわりに、自分の使命を深く自覚する者になりました。あの葬られたイエスが、今、まさに生きて彼女の心を捕らえたのです。マリアは、決して自分のうちに留めておくことのできないよろこびを覚え、弟子たちのところに向かって行きました。今も、彼女は自分自身の主との出会いの感動をわたしたちにわかち合ってくれます。「わたしは、主を見ました」と……。
わたしたちは、一人ひとり、どのように復活の主と出会い、マリアのように、「わたしは、主を見ました」という体験を深めることができるでしょうか。
2016年以来、7月22日の「マグダラの聖マリアの記念日」は昇格して祝日として祝われるようになりました。このことを定める典礼秘跡省の教令(2016年6月3日付)では、マグダラのマリアを「主の復活の最初の証人であり最初に福音を告げた者である」として最高の敬意をもって崇められてきたと述べています。今日、主の復活を祝うわたしたちも、主の復活を、間近で体験し、告げ知らせていったマリアの歩みとその感動を、自分自身の信仰の原体験として味わい、現実の生活の中で起こる様々な困難や苦しみを越えて、生きる力と主の復活の証人として出向いていく希望をいただくことができますように…。
えくれしあ386号20240331発行より