20251109 お説教 鶴山師
第一朗読 エゼキエル47:1-2,8-9,12
鶴山師
バチカンでは水曜日、一般謁見が行われ、教皇はサンピエトロ広場で大勢の聴衆を前に講話をされます。昨年12月から聖年に関連して「私たちの希望であるイエス・キリスト」というテーマで講話が行われています。
9月17日に教皇レオ14世が行われた講話は聖土曜日に関する講話でした。聖土曜日は皆様にとってどのように映っているでしょうか。聖週間の土曜日、日没後に復活徹夜祭が祝われます。聖土曜日の日中、祭儀はありません。聖金曜日にイエス様の受難を記念し、聖土曜日はイエス様が墓に納められ眠りについていることを記念します。
さて、レオ14世は聖土曜日について、それはただの沈黙ではないと述べられます。大地の中の種のように命が芽吹くのを待っている状態だというわけです。9月17日の講話を読んだ時、レオ14世は聖土曜日の意味を私たちの日常生活に近づけようと心を砕いておられるな、という感想を持ちました。一部引用します。わたしたちの「無駄な」時間や、休止と空虚と不毛な時でさえも、復活の母胎となりえます。…すべてが膠着し、人生が行き詰まったかのように思われるとき、聖土曜日を思い起こそうではありませんか。神は、墓の中でも、もっとも偉大な驚くべきことを準備しておられました。
この講話を読んだ時、イエス様の受難と復活について私たちは時々、確認する必要があると思います。イエス様はイスカリオテのユダに裏切られ、弟子たちも逃げてしまった。ご自分が養成した共同体の崩壊の時です。十字架刑という人としての尊厳もはぎとられた死であったのです。でも神様はイエス様を復活させてくださったのだ、と。天地の創造主と私たちは信仰宣言の中で唱えます。神様が天地の創造主であることを信じるということは神が私たちの人生においてもマイナスからプラスへと導きだしてくださると信じることに繋がります。
今日の第一朗読、神殿から水が流れ出て、汚(よご)れた海に入っていくと水がきれいになり、命が満ち溢れる様子が記されています。聖書と典礼の脚注をみますと次のような説明がなされています。エゼキエルは当時失われてしまった神殿が再建される幻を見るが、ここで預言者が見た神殿から流れ出る水は全てのものの命を回復させる神の救いの象徴である。そして汚れた海とは死海のこと。当然、塩分の含有量が高いため、生物は本来ほとんど住むことができません。 第一朗読は希望に満ちたメッセージです。失われた神殿の再建、命の気配のない汚れた海にあふれる命。私は第一朗読を黙想した時、教皇レオ14世のこの講話のことを思い浮かべました。
今日の奉納祈願の一節は次の通りです。「あなたの教会で祈りをささげる人々を秘跡によって力づけ、その願いを聞き入れてください」。 何も期待できない状況から命が湧き出てくるということですね。
私たちは秘跡によって、特にミサによって生きる力を得る、そのような経験をしていると思います。自分の願いがすべて聞き入れられるわけではありませんが、苦しみや失望を潜り抜ける力を得ています。聖土曜日の神秘はイエス様を信じる多くの人が既に経験した信仰体験であると思います。