年間第22主日 マタイ16章21~27節(北村師)

年間第22主日 マタイ16章21~27節

今日の聖書の箇所は、先週、イエスさまに「あなたはメシア、生ける神の子です」と立派な信仰告白をしたペトロが、「サタン引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている」と言われ、厳しく叱られてしまう箇所です。今日の箇所は、イエスさまが初めてエルサレムでの受難を予告された直後の出来事です。ペトロにすれば、イエスさまは、イスラエルをローマ帝国の支配から解放してくれるメシアであるはずだという思い込みがあったのでしょう。つまり、ペトロは彼なりには一生懸命、イエスさまのことを思っていて、イエスさまに望みをかけていました。しかし、その望みがどれほど自分勝手で、的外れなものであるかには、何も気づいていませんでした。自分はいいことをしているつもりで、イエスさまを諫めます。そうするとペトロは、「サタン引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者」と、こっ酷く叱られてしまいます。ペトロは何がなんだか分からなかったでしょう。自分はイエスさまのことを一番よく知っているつもりで、イエスさまのことを思って言っているつもりだったからです。実は、この「つもり」というのが曲者なのだと思います。

人間は本当のことが分からないと、それならやめておこうということにはなりません。本当のことが分からないと、一生懸命に自分の小さい頭で考えて、それを本当のものにしようとします。人間は基本的に自分が学んだこと、考えたこと、経験したことをもとにして、いろいろな結論を出そうとします。これは人間としてとても大切な、考えるという能力-理性-です。しかし、これは単なる推測の域を出ないのにも関わらず、それを本当のものにしてしまい、それを絶対化してしまうということがよく起こります。人間は基本的に自己中心的ですから、このようなことも仕方がないのかもしれませんが、非常に危険なことでもあると言わざるを得ません。わたしたちも自分の日々の生活の中で、自分の経験したことは間違いがなくて、それが誰にでも通用すると思い込んで、それを人にも押し付けてしまうことがよくあります。それは、カトリック教会であっても例外ではないように思います。

コロナでミサのために集まることが難しくなりました。ミサは、イエスさまと出会って、イエスさまに救われた人々が集まってできた信仰共同体が、感謝の祭儀として祝うことから始まりました。しかし、今までの教会のあり方は、ともすれば日曜日のミサに行くことがキリスト者ということであり、集まることで共同体になったつもりになっていました。ミサで、聖体を頂くことだけで自足しているだけであったと言えるでしょう。だから、今でもミサに参加できないときは、霊的聖体拝領の祈りを唱えたり、ミサの代わりにロザリオの祈りをすることを勧める人たちもいます。ミサに参加することが信者としての務めであり、それが共同体であるという思い込みに囚われていて、キリスト者であるつもり、共同体になったつもりになっていたのではないでしょうか。しかし、一度身についた思い込みを、それが思い込みであったことに気づくことは容易なことではありません。まして、教会そのものがその思い込みを推奨し、聖職者がそうであればなおさらのことです。分かったつもりになっているだけで、本当は何も分かっていなかった、分かったふりをしている。その「つもり」が邪魔をして、自分が今まで学んで身に着け、自信となって、奢りともなってしまった思い込みを今さら疑うことも出来ません。だから、新たに、それを問い直すことも、学び直すことも難しくなってしまっているのが、わたしたちの現状ではないでしょうか。

今日のペトロの姿は、まさにわたしたちであると言ったらいいでしょう。このコロナの状況は、わたしたちへの問いかけとなっています。分かったつもりになっている。しかし、実は分かっていなかったことが明らかにされたのだと言ったらいいでしょう。そこで、旧来の教えや制度にしがみつくか、新たに己の身を問い直していくかが、今後のカトリック教会の分かれ道になるように思います。イエスさまは、わたしたちの痛み苦しみをつぶさに見て、叫び声を聞いて、わたしたちのもとに下ってこられ(出エジプト3:7)、復活して、既にわたしたちとともにおられます。そして、わたしとの出会いに飢え渇いておられます。そのイエスさまの願いに、今一度、耳を傾け、目を開き、わたしたちが手を差し出せるかどうかにかかっているように思います。それはまさに、今一度、イエスさまとの真実の出会いにわたしたちが飢え渇くこと、まずそのことに気づくことが出発点です。即ち、分かったつもりになっているわたしたち人間が、素のありのままの自分になって、拘りを手放して、お互いに人の言うことをしっかりと傾聴する耳、人の痛みに思いを馳せる目、お互いに差し伸べあう手を、人としてもつことができるかどうかです。神の国は既にわたしたちの間に、神の国は人と人との関りの間に来ていると言われます(ルカ17:21)。わたしたちが、今、直面しているこの状況は、イエスさまからの問いかけとなっています。イエスさまと出会い、己を問うことが、自分を捨てて、自分の十字架を背負って、イエスさまに従うということになるのではないでしょうか。いや、ありのままのわたしで、真にイエスさまと出会うとき、自然と従いたくなるのです。

 

2020年08月28日