王であるキリスト マタイ25・31-46(尹師)

王であるキリスト マタイ25・31-46

教会は社会教説を通してそのように宣言します。「貧しい人々が福音を聞く時、それはキリストが現存される印となる」と・・・私たち一人ひとりはすべて関係がある。どれも私たちと無関心な人はありません。

《万物の主である神が「栄光の座に着く」ことによって始まる、最終的な審判が描かれています。さばきの基準の方は「公平な裁き」です。もう少し優しく言えば、神のみ言葉を聴いて、神の愛と正義を実現したかどうかということです。すなわち、飢えている人に食べさせ、のどが渇いていている人に飲ませ、裸の人に着させたかどうかによって決まる裁きです。

来週、11月末、待降節が始まります。心も体も精神も尽くして、自分自身を空っぽにする時間です。そして真の王であるイエス・キリストの降誕をふさわしく準備する時期です。神から使わされた真の王、救い主を迎えるためです。宮殿ではなく、馬小屋でお生まれになった小さくて貧しい方を迎えるためです。

神様が「最も小さい者」になり、御子に十字架を担わせ、和解の言葉を罪人に語りかけたのですから、わたしたちがその和解を受けているなら、「最も小さな一人」に対する配慮を行われるはずです。「この最も小さいものにしたのは、わたしにしてくれたこと」という王の言葉は、神ご自身が「最も小さい者」となられたことを示しています。

だから、そのような小さい人々に対して配慮の心、思いやり、愛を忘れないためにイエス・キリストを「王」として今日の祝日を祝うのです。「人の子は」仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た」と(マタイ20,28)福音にも言われています。真の王の姿です。

栄光の座に座る「人の子」は、自ら無にしてわたしたちに「仕える」者となった王です。今日、この真の王の御心を忘れないようにわたしたちを招かれているのです。
その交わりが、わたしたち「仕える」者へと変える力となります。教会は、終末に向かって歩むキリストの体です。

教会の典礼暦で、新たに始まる年を迎え、心も体も改めて、イエス様が生涯を掛けて歩き続けた奉仕の道、愛の道、正義の道を私たちもイエスの生き方を通して、実践できるように願ってこのごミサを捧げましょう!

私たちの理想、希望、目的はことごとくキリストのうちにあります。なぜなら、キリストは、真の王であり、愛であり、神であらせられるからです。》 裁きの日、天国に入れる人となりますように、つねに愛を実践する日々でありますように・・・

2020年12月04日