待降節第3主日 ヨハネ1・6-8、19-28

待降節第3主日 ヨハネ1・6-8、19-28

「喜びの主日」と呼ばれる待降節第三主日にあって、イザヤの預言の言葉を聴く私たちは、試練のうちにあっても、神が必ず救いに来てくださるという希望を思い出すことができます。今日の第一朗読は自分の使命は「貧しい人に良い知らせを伝え解放を告げ知らせる」ことだと述べています。「時は満ち、神の国は近づいた」(マルコ1:15)という神の国が始まったということを言っているのです。

第二朗読は「皆さん、いつも喜んでいなさい、絶えず祈りなさい、どんなことにも感謝しなさい、霊の火をともし続けなさい。」と。喜びというのは、人が神の前にあって大切な態度であるし、祈る人は感謝している人間の姿であります。

こういった生き方が可能なのは、神が私たちに望んでおられるからですが、この望みは、イエスがそのように生涯を通して生き抜き、神によって復活させられたことによって、私たちに確かなこととして知られようになったからです。  

そして、私たちがこのイエスの生き様と復活を「良い知らせ」として受け入れるとき、
「まったく聖なる者」、「何一つ欠けたところのないもの」、「非のうちどころのない者」とされるのです。今日の福音は先週と続けて、洗礼者ヨハネに注目しています。
祭司やレビたちがヨハネに、「あなたは、どなたですか」と質問させたとき、隠さず、「わたしはメシアではない」とまた、「では何ですか、あなたはエリアです か」と尋ねると、ヨハネは、「違う」と言います。

さらに、「あなたはあの預言者ですか」と、「そうではない」とこたえます。
洗礼者ヨハネは、自分が誰であるかをよく理解していました。だからこそ自分に与えられた使命が、何であるかも知っていたのです。彼は光でもなければ、メシアでもなく、預言者ですらありませんでした。洗礼者ヨハネは、み言葉を告げる声であり、霊の炎(ほのお)を準備するための水にすぎませんでした。

福音宣教はそれ自体に目的をもつものではなく、常に「何かに到達(とうたつ)できるため」になされるものです。だからこそ福音宣教者は、洗礼者ヨハネのように「み言葉」と「単なる声」を正しく区別することを知っているのです。

遣わされたものは、謙遜な心をもって「貧しい人に良い知らせを伝え、解放を告げ知らせる」こと、自分の生き方を通して「いつも喜んでいなさい、絶えず祈りなさい、どんなことにも感謝しなさい、霊の火をともし続けなさい。」と伝えることでしょう。

2020年12月13日