待降節第4主日 ルカ1章26~38

待降節第4主 日ルカ1章26~38

待降節第4主日になりました。今まで、回心とそれによって始まる信仰生活について、話してきました。回心は、わたしたちの心に引き起こされますが、人間の努力によって引き起こされるものではなく、イエスさまからの一方的な恵みであることをお話してきました。そして、その回心に基づいて、信仰があることもお話してきました。それでは、実際に、わたしたちはどのようにすれば真の信仰に至り、またその道を歩むことができるのでしょうか。今日は、そのことを福音から考えてみたいと思います。

今日の箇所は往々にして、マリアの物語と理解されがちです。しかし、むしろ、初代キリスト者自身が、神のみことばに耳を傾ける教会の姿、つまり神の恵みがいかにわたしたちに働き、わたしたちがどのように神の恵みに協力していくことが出来るかについて書かれたと思われます。実際、初代教会では、イエスさまの誕生について、ほとんど関心を示しませんでした。ルカは、イエスさまが、人間の血脈によらず、ユダヤ人でもなく、全人類の救い主であることを誕生物語として描きました。そして、そのコンテキストの中で、神のみことばに耳を傾けるキリスト者の姿、人間の理性や判断に頼るのではなく、それを超えて、神のことばに聞き従っていく、信仰者のあり方が書き記したのではないでしょうか。

わたしたちの信仰は、聞くことから始まります(ロマ10:17)。イエスさまの時代、テレビも、パソコンも、スマホもありません。多くの人は、字が読めるわけでもありません。そうなると、唯一の伝達方法は、人を介して、「話す-聞く」ということになってきます。聞くことは、それこそ自分や家族の生死にかかわるほど大切なことになってきます。だから、聞くということは、人と人との信頼関係の上に成り立っていました。聞くことが、即、生きることと直結していました。それこそ、聞くこと以外から、他の情報を手に入れることが出来ないからです。ですから、信仰の上でも、聞くことが全てであったと言えるでしょう。初代教会では、旧約聖書はありましたが、今のような新約聖書はありません。皆がどのように、イエスさまを救い主として信じるようになったかというと、イエスさまの弟子たちの証を聞くことによってです。復活されたイエスさまと出会った弟子たちは、自分の体験を証していきます。そして、その証を聞いた人たちも、同じように復活されたイエスさまと出会うという体験をしていきました。そのようにして、連鎖的にキリスト教は広まっていきます。はじめは証し、口伝があっただけで、聖書や教会の教えなどは全て後付けです。

今度は、わたしたちも自分たちのことを振り返ってみましょう。幼児洗礼でなんとなく教会に来ているだけという人もいるかもしれません。しかし、大人になって洗礼を受けた人は、誰か人を介して信じるようになったのではないでしょうか。もちろん聖書を読んだり、公教要理を習ったりしたでしょうが、そこで必ず誰か人間が関わっています。幼児洗礼であって親が関わっています。必ず、誰か、人から聞くということがあったのです。このように、聞くということが信仰の前提です。一人で信じたという人は誰もいません。

しかし、なんとなく始まった信仰生活では、多くの人が途中で挫折してしまいます。なぜなら、信じることを突きつめていくと、それ自体が理不尽、非現実的だからです。わたしたちは皆、自己中心ですから、自分の頭でわかろうとします。今のカトリックの神学は、人間の頭ですべてを説明しようとした残骸のようなものです。本来、自分の頭で理解して分かる、という発想自体が見当違いなのです。人間の苦しみの根っこにあるのは、自分の頭ですべてを解決しようとし、しかし、出来ないことから生じてくる我執に他ならないからです。そのわたしが自分の頭、自分の物差し、己の度量で、聞いても分からないのは当たり前です。自分の頭に合わせて聞いている訳ですから、分かるはずがありません。わたしが全くあてにならない存在である以上、「分からない」という元のところへ戻って帰ってしまうのは当然です。そこで、所詮こんなもんだと開き直るか、自分の中で堂々巡りをするかいづれかになってしまいます。

そうではなく、聞くということは、わたしの頭にイエスさまについて情報を取り込むことではなく、イエスさまの中にわたしたちが飛び込んでいって、イエスさまを体験的に教えていただきなさいということです。神学も元々は体験があって、それが内省されたものでした。しかし、ヘレニズム化され、あまりにも体系化されて、かえって人々がイエスさまに出会うことのを妨げています。ただ、素になって、神のみことばを、聞き続ける以外に方法はないのです。聞いて、聞いて、聞くことによって、わたしの思いがいかに自分勝手なものであるかが教えられるときに、あるとき神のみことばがすっと入ってきて、真に聞く信仰生活が始まります。一番怖いのは、自分は分かっているつもりという思い込みです。そのようなあり方は、往々として他者への横暴となって表れてきます。だから一番気をつけなければならないのは、司祭・修道者です。神のことばを聞くためには、何の準備も、資格もいりません。右往左往している、忙しい、愚かなわたしの生活のただ中で、わが身ひとつとなって、聞いていけばよいのです。わたしたち人間は、だれであっても、どこまでいっても愚かな罪人です。だから、その愚かである生活の場が、神のみことばを聞く場であり、キリスト者の生活は、神のみことばを聞くことに尽きると言えばよいでしょう。キリスト教は難しくて、よく分からないという人がいます。それは神のみことばを聞いていないからです。ただ、自分の考えの中に神のみことばを当てはめようとしているからです。神のみことばは、聞けば聞くほど分からなくなります。だからまた聞き、そして、己の身を正していく。信仰生活に正しい答えも、模範解答もありません。皆、同じキリスト者として、イエスさまに聞いていくというあり方が、信仰そのものです。分からないから聞く、聞いてまた分からないから聞く、その繰り返しです。これは聖職者であろうと、信徒であろうと関係ありません。なんとなく教会に来ているだけでは足りません。また、教えとして学び覚えたキリスト教の知識などでは、人々の苦しみ、悲しみ、痛みの前には間に合いません。わたしたちが、自分のはからいをすてて、素直にイエスさまに聞き続けること、唯、そこに信仰生活のすべてがあるのだということを心に留めましょう。

2020年12月17日