主は復活された!

                          聖ヨゼフ修道会 Sr.山本久美子

四旬節の受難の日々を過ぎ越し、教会では全典礼暦の頂点である主のご復活祭をお祝いしています。自然界も、新しいいのちの息吹に満たされ、私たちと共に復活のいのちを謳歌しています。

主の受難、十字架上の死、ご復活の過ぎ越しを祈ることは、私たちの日常、日々の出来事、人生をふり返り、黙想することでもあると感じています。主イエスの十字架の道行は、人間の弱さや試み、苦しみや死をどこかで否定し、恐れ、考え違いをしている私たちに、行くべき道を示して下さるものだと思います。
イエスは、十字架までの道のりを一人の人間として歩まれました。おそらく裸足で歩かれたでしょう。長い道のりを、土にまみれ、傷だらけで疲れ切って歩まれたイエスの足を思う時、私は、最後の晩餐の席で、すすんで弟子たちの前にひざまずき、彼らの足を洗われたイエスの姿にいつも思いを馳せます。
「この世から父のもとに移る御自分の時が来た
ことを悟った(ヨハネ13:1)イエスは、弟子たち一人一人の足を洗われました。「弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」(ヨハネ13:1)イエスの愛の行いであり、遺言のような行為です。イエスは、弟子たちの足を洗うということを通して、私たち一人ひとりの人生の深い意味を示して下さっていると、私は思います。十字架の道行の極みまでの痛みと苦しみ、拒絶、裏切られるという深い喪失感と孤独を引き受けられたイエスは、私たちのそれぞれの人生、どんなにささやかであろうと、また、長く厳しいものであろうと、一人ひとりの人生という土壌を歩む私たちの足を、心からの共感をもって、両手で受け止め、洗い清め、傷をいやして下さることがおできになるのです。イエスは、私たちの足を洗いながら、一人ひとりの歩みの中で、目に見えずとも「共にいて」くださることを示されるのだと思います。イエスが、十字架上の死まで歩まれたのは、私たちの人生のどのような場面においても、どんな苦しみや失敗、不条理な出来事の中でも、「何もキリストの愛からわたしたちを引き離すことはできない」(ローマ 8:39)こと、「共にいる」という神の愛の交わりを、疑いようがないほどに示すためだったのだと思います。
イエスは、世の権力者から侮辱を受け、あざけられ、十字架を背負われました。今も世の権力によって抑圧や搾取という形で苦しめられ、辱しめられている多くの人々の十字架と、そして、知らずに偽りの権力や暴力に加担してしまう私たち人間の罪を、イエスは担われるのです。イエスは、決して権力によって治める「王」ではありません。もはや、ご自分からは何も語らずに、愛によるご自分の道を全うされるために、十字架を担われたのです。
私たちは、まず、自分の内にある「闇」、弱さや罪、また、それらにふりまわされてしまう感情のもろさなど、自分自身の十字架に真に向き合う必要があるのかもしれません。私たちは、自分自身のひび割れや傷、無力さ、飢え渇き、孤独感、そして、いずれ土に還っていく身にすぎないことに気付き、本当にそれらを受け入れているでしょうか。
イエスは、途上で十字架の重みに耐えかねて倒れられました。イエスは、決して「鉄の意志」を持って苦境に立つ「英雄」ではありませんでした。イエスは、人々の前で、御父の御前で完全に砕かれたのです。イエスのこの深い、深いへりくだりの前に、私たちも、神様の助けなしでは、決して立ち上がることのできない貧しい、無力な自分自身に深く出会っていかなくてはいけないのだと感じます。
イエスは、十字架までの道のりの途上で、いろいろな人々に出会われました。とりわけ、母マリアとの出会いに、心が裂ける思いを味わわれたことでしょう。弟子たちは逃げ去りましたが、マリアはイエスと共に十字架のもとで立ち続けられました。愛する我が子を殺害されるという過酷な現実を目の当たりにした時、聖母も心を乱し、狂おしいほどに悲しまれたと思います。マリアも一人の母親にすぎません。しかし、マリアは、我が子と自分が受けた痛みに対して、報復や復讐、あるいは絶望で応えるということを選びませんでした。マリアは、神のご計画に対して、わからないなりにも、深いところで「はい」と言い続け、御子イエスがいのちを懸けて示し続けられた、同じ「道」をひたすら選び取られたのです。人類の悲しみや苦しみに心から共感する 「教会の母」となられたのは、そのためです。
十字架の道行きの伝統によると、イエスは、他にもシモンというキレネ人、血と汗を流されたイエスの御顔を拭ったヴェロニカという女性、エルサレムの女性たち…に出会われました。そのことを祈りのうちに深めていくと、その一人ひとりが私自身だということに気付かされます。イエスは、十字架への歩みの途上で、私たち一人ひとりに出会われるのだと思います。そして、私たちにとっては、日々の自分の貧しい人生の歩みの途上で、イエスに出会うのです。通り過ぎて行く日々の出来事、あの人、この人との出会いの中にイエスはおられるのだと思います。私たちに助けを求めるために、逆に私たちを支えようと差し出される手は、イエスの御手そのものなのだと思います。
主イエスが復活された後、十字架上で無惨な最期を遂げられたイエスに落胆した二人の弟子たちは、「目が遮られていた」ため、共に歩み、話しかけるその人が復活されたイエスだとは全く気付きませでした。「エマオの旅人」(ルカ24:13~35)と言われる二人は、それぞれの人生の中で共に歩んでくださっている主イエスに気付かない私たち自身だとも言えます。主イエスは、あらゆる苦しみや不条理な現実、そして死さえも越えて、復活され、今も、私たちの間に、私たちの真ん中に立っておられます。主は、私たちを死の世界から、神の愛の交わり、新しい「いのち」「平和」に招くために復活されたのです! 主キリストのご復活おめでとうございます!

 

2017年05月01日