2022/03/06 四旬節第1主日 ルカ4章1~13節 勧めのことば(北村師)

四旬節第1主日 ルカ4章1~13節
イエスは荒れ野のなかを”霊に“よって引き回された、誘惑を受けられた。

今年も四旬節に入りました。今日の福音は、イエスさまの荒れ野での40日間の滞在の箇所が朗読されます。ルカはイエスさまがヨルダン川で洗礼を受けて、聖霊に満たされ、聖霊によって荒れ野を引き回され、誘惑を受けたと述べています。荒れ野での出来事の主導権を取っておられたのは聖霊であることが分かります。そこで、今日は聖霊に満たされること、聖霊に導かれるということが何であるかを見ていきたいと思います。

まず誘惑とは何でしょうか。わたしたち人間は本能的に苦しいことや辛いことを避けようとします。それは人間として当たり前のことです。イエスさまも弟子たちに主の祈りをお与えになったときに、「わたしたちを誘惑におちいらないでください」と言われました。また、ゲッセマネの祈りのときにも、「誘惑に陥らないように祈りなさい」と2度も弟子たちを諭しておられます。わたしたちは皆自己中心ですから、自分の思いが叶うようにすべてを動かそうとします。たとえそれがよいことであっても、悪いことであっても、結局は自分の思いを叶えたいということに変わりはありません。わたしたちはどこかで、自分の思いが叶うことが人間の幸せであり、目的であるというふうに考えています。宗教の世界でも、自己放棄や利他の奉仕をするとか、修行や犠牲をすることが大切にされていますが、よくよく考えてみると、一体何のためにしているのかが問われてきます。結局は、自分のため、自分が救われたいとか、自分が認められたいとか、自分が納得する教えを聞きたいとか、自分の思いを叶えたいとか、自分の主義主張を通したいとか、どこまでいっても自分が目的になるところからわたしたちは自由になることはできません。どれほどよいことであったとしても、大義名分があったとしても、その愚かな自分を見つめることがなければ、それこそイエスさまが言われた愚かもの、偽善者になってしまいます。そのことをわたしたちはきちんと自分の現実として気づいているでしょうか。信仰を云々する前に、徹底した自己認識から出発しなければならないということを先ず押さえておきたいと思います。

わたしたちは、「どうしてあんなことを言ってしまったのだろう」、「どうしてあんなことをしてしまったのだろう」ということを体験します。つまり、心のなかで考えていることとまったく違うことをやってしまったり、思ってもいないことばが口から出てきたりします。どうも、必ずしも良いものを入れた心の倉から良いものが出てくる、悪いものを入れた倉から悪いものが出てくるという単純な話でもないように思われます。これはどういうことでしょうか。そもそも、わたしたちは自分の心というものを知ることができるのでしょうか。

それならば、わたしたちはどのようにしてその自己中心というあり方から解放されていくのでしょうか。それが今日の福音で言われている、「聖霊に満たされ、『聖霊に引き回され』、聖霊に導かれる」ことによってであると言えるでしょう。それでは、聖霊に満たされ、聖霊に導かれるということはどういうことでしょうか。聖霊に満たされるということは、特別な神秘体験をすることではありません。イエスさまは、洗礼をお受けになったときに聖霊に満たされる体験をされました。イエスさまは神さまですから、今までなかった聖霊に満たされたということではなく、自分が聖霊、いのちに満たされていることを実感されたということでしょう。その意味では、わたしたちも、すでに聖霊に満たされています。洗礼によって聖霊に満たされたのではなく、イエスさまと同じように、わたしたちがこの世界にいのちをいただいていることそのものが、わたしたちが聖霊に満たされているということに他なりません。洗礼の有無ではありません。それとも、洗礼を受けていない人は聖霊に満たされていないとでもいうのでしょうか。聖霊は、すべての生きとし生けるものを活かす神のいのちです。キリスト者であるかないかなど問題にならないのです。

その聖霊がわたしたちを誘うところが荒れ野です。荒れ野は聖霊に導かれるところ、イエスさまとの出会いの場、イエスさまの思いを知らされるところです。と同時に、荒れ野はわたしたちの力が及ばないところです。荒れ野は、わたしの思いが何ひとつ叶わないところです。その荒れ野はどこにあるのでしょうか。荒れ野を探して、黙想の家や修道院、巡礼に行く必要などないのです。わたしたちの思いの叶わないところ、それはわたしたちの人生ではないでしょうか。わたしたちの人生は、わたしたちの思い通りにはなりません。しかし、多くの人がそこで自分の思いを叶えようと権力、力、能力、名声、名誉などにしがみつき、何が何でも自分の思いを通そうとします。それが誘惑の正体です。明らかに悪いことであれば別ですが、たとえそれがどんなに社会的に、宗教的によいことであっても、自分の思いを無理に通そうとするなら、わたしたちはイエスさまに従っているのでも、聖霊に導かれているのでもないのです。イエスさまの生涯は、聖霊に従うことでした。イエスさまは聖霊に導かれて、荒れ野へ、ガリラヤへ、エルサレムへ、そしてカルワリオへと歩んでいかれました。イエスさまは、ご自身で自分の行き先を決められません。ただ霊に導かれて、その時々の状況を受け入れて、進んでいかれました。その終着駅が、たとえイエスさまが望まなかったカルワリオであったとしてもです。

つまり、そのときの状況、人との関り、そして出来事に、イエスさまはご自身を与えていかれました。これが聖霊に導かれるということなのです。自分の思いを通すのではなく、内なる聖霊の導き、つまりその時々の出来事や状況のなかに、自分の歩まなければならない道を見出していかれたのです。わたしたちは人生のなかで自分の思いをがむしゃらに通そうとするとき、ほとんど道を見誤ります。しかし、わたしの人生のなかでわたしの身に起こってくる出来事や状況は、わたしに必要なのでイエスさまは起こしておられるのです。ですから、わたしたちがそれに自分を与えていくとき、イエスさまの望みに従っていくことになります。これはわたしたちがよくいう“お任せ”ではなく、単なる諦めや厭世主義でもありません。むしろ、積極的に自分の人生を選んでいくことに他なりません。わたしたちは、「わたしの思いを通すという誘惑からお守りください」と常に祈らなければならないのでしょう。四旬節だからといって、特別の犠牲や苦行、信心をする必要など何もないのです。わたしたちの人生、日々の荒れ野を聖霊に導かれていくこと、そこにまことの回心の歩みがあるのです。

2022年03月04日