2024/08/19 年間第20主日 ヨハネ福音書6.51-58より(柳田敏洋)

説教 8月18日、2024年
年間第20主日 ヨハネ福音書6.51-58より

 

イエズス会司祭 柳田敏洋

今日の福音は先週の日曜日に続いて、ヨハネ福音書6章の命のパンについてのイエスの説教の箇所です。

今日の箇所ではイエスが「はっきり言っておく、人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない」と強烈な言葉をおっしゃいます。イエスは大切なことを教えようとするときにわざと大げさに言う傾向があります。例えば「兄弟の目にあるおがくずに気づく前に、自分の目の中の丸太に気づきなさい」(ルカ6.41参照)などです。でも、今日の福音の言葉は強烈すぎます。これをどう読み解けばよいでしょうか。

そのヒントはヨハネ福音書4章34節です。イエスとサマリアの女との対話の物語の後半ですが、弟子たちが食べ物を求めて町から戻ってきたときに、イエスは弟子たちに「私の食べ物とは、私をお遣わしになった方のみ心を行い、その業を成し遂げることである」とおっしゃいます。イエスも生きるために食べ物を食べる必要があったでしょう。しかしイエスにとって本当に生きるとは、父なる神のみ心を自分の心として生きることにあったということです。

これは私たちにも同じことです。命のパンを食べるとは直接にイエスの肉を食べ、血を飲むところにあるのではなく、イエスのみ心を自分の心として生きるところにあるということです。ここをしっかりと理解していないと、ご聖体拝領をご利益のように考えてしまいます。そうではありません。イエスの命をいただくとは、イエスの心を自分の心にしていくこと。これがイエスを食べることです。

では、どうすればイエスの心を自分の心とすることができるのでしょうか。私たちの神は無条件の愛(アガペ)そのものの神として私たちの心の奥底に住まわって下さっています。ここにキリスト教の福音があります。私たちがどのようにエゴに染まっていても、愛の神は私たちから離れることがありません。

そして、私たちは皆、神の似姿として造られました。ですからその神の似姿として、私たちも心の奥底に愛の神と響く、無条件の愛を生きる真実の私を持っているのです。その真実の私の場所が、イエスの心を私の心とする場所です。

そこに至るために、私の場合は仏教のヴィパッサナー瞑想が助けとなりました。自分の心を裁かずにあるがままに気づくという瞑想です。例えば、エゴの心から相手に対して「何だあの人は」と決めつける心が生じ、またそれに伴って怒りが湧いてくるとき、そのような決めつけの考えや怒りを裁いたり、取り除いたり、正当化することなく、ただ心に現れた事実として気づくのです。「今、私の心に『何だあの人は』という考えがある。また怒りもある」と意識して気づくようにします。この気づきは、決めつけの考えや怒りから離れています。その時に、一切裁きを持ち込まずに気づいている気づきは、エゴから離れたもう一人の私による気づきで、これは無条件の愛である真実の私からの気づきです。この気づきこそが神の似姿です。この時に、私は心の奥底の愛そのものであるイエスの心と響いているのです。これがイエスを食べること、イエスの心を自分の心とすることです。これには練習がいりますが、日々丁寧に無条件の愛による気づきを持つことで私たちは、心の奥底にイエスの心を自分の心として育んでいくことができるのです。

私たちが気づこうと気づくまいと、内なる愛の神が私たちから離れることはありません。内なる神は愛を注ぎ続け、私たちを支え続けられるのです。この神の限りない愛に信頼しながら、少しずつであっても、どんなエゴの私が出ても、その私を裁かずに気づくことでエゴの私から離れ、イエスの心を私の心としていけるよう祈りましょう。

2024年08月19日