年間第3主日 マルコ1章14~20節(北村師)

年間第3主日 マルコ1章14~20節

今年はB年でマルコ福音書が読まれます。マルコはマタイやルカと違って、イエスさまの誕生物語や幼年物語に触れないで、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」というイエスさまの第一声から始まります。そして、最初の弟子の召命が描かれます。わたしたちの大抵の反応は、最初の弟子たちは、自分の仕事や家族を捨ててイエスさまに従った立派な人というイメージをもってしまいます。ですから、聖職者やシスターは偉いですね。家族も捨てて、すべてを捨ててイエスさまに従ったのですからという発想になりがちです。しかし、果たしてそうでしょうか。召命ということは、すべてを捨ててイエスさまに従うという人間の行為をいうのでしょうか。

イエスさまが、弟子を招かれる場合、ひとつのパターンがあります。①イエスさまがその人を見る、②イエスさまがその人を呼ぶ、③呼ばれた人が応える、ということが共通しています。わたしたちは、どうしてもすべてを捨てて従ったという③の人間の反応に注目しがちです。しかし、それはあくまでも、人間の側の反応であって、召命ということを考えると、そこに中心があるのでありません。召命と訳されていることばは、「呼ぶ」ということばが語源であり、呼ぶのはいつもイエスさまです。イエスさまがその人を見つめて、呼ばれたから、その人が呼びかけに応え、生き方に変化がもたらされたのです。わたしたちは、とかく、人間の行為に目を奪われがちです。どうしてかというと、わたしたちは、自分の力で自分の生き方や自分自身を変えたり、コントロールできると思っているからです。特に、近代以降、人間にはすべてが可能で、人間の力で人間は幸福になれると信じ、突き進んできました。頑張れば頑張っただけ、評価され報われるという信念のもと進んできました。しかし、その結果が、人間社会の格差や貧困、原発問題だったり、地球規模の温暖化だったりする訳です。

わたしたち人間は、皆、イエスさまによって「見つめられているもの」だという、人間の原点に立ち返らなければならないのではないでしょうか。魂の深みをも射通すほどのイエスさまの眼差しによって、わたしたちは見つめられているのです。このイエスさまの弟子たちへの眼差しが、彼らの今までの生き方まで変えさせました。その眼差しは、彼らを暖かく包み、彼らを捕らえ、彼らを虜にしてしまいます。そのイエスの眼差しに出会ったものは、決してその眼差しを忘れることは出来ず、その人の中にある愛を発動させ、その生き方を根底から覆し、イエスさまに従わずにはいられなくさせるのです。その従い方は、人それぞれです。

多くの人は、ペトロのようにすべてを捨てて、イエスに従ったと思われがちですが、その後の箇所では、弟子の舟が使われていたり、ペトロは結婚していましたから、その伴侶を同伴しての宣教活動であったとも言われています。大切なのは、何かを捨てることではありません。イエスさまの眼差しに出会い、そのイエスさまの呼びかけに気づくことです。それは、必ずしもわたしたちの生活形態を変えることを意味しません。大切なのは外的な生活形態を変えることにあるのではなく、イエスさまとの出会いによってもたらされる内的な回心です。今まで、自分を中心として生きてきた生き方から、イエスさまを主とする生き方へと変えられていくことです。そのためには、イエスさまから見つめられている眼差しと出会うことが必要です。それが弱くなり、わたしが主人になってしまうと、その生き方は以前の自己中心の、自力による生活に戻っていきます。その自力のものの見方や考え方を破っていく働きが、イエスさまの眼差しです。

イエスさまの眼差しに触れるとき、すべてのものは相対化されていきます。その眼差しに触れるとき、わたしたちは自分が無力で、弱い、罪人であることを知らされます。と同時に、心の底からイエスさまから愛されていることをも発見していきます。すべての人間は、イエスさまから見つめられ、愛され、呼ばれているものなのです。これは司祭・修道者になるという意味ではありませし、生活様式の問題でもありません。それぞれ自分の生きている生活の場で、イエスさまの眼差しを意識して生きること、それに尽きると言ったらいいでしょう。その結果、ある生活様式を選ぶということが起こることもあります。しかし、多くの人が、ひとつの生活様式に入ることで、信徒、司祭、修道者という身分に胡坐をかいて安心し、その歩みを止めてしまいます。しかし、イエスさまは常に、わたしたちを見つめ、呼びかけておられます。イエスさまの呼びかけに応えるということは、わたしたちのあり方と生き方を調和させていくプロセスなのです。自分がキリスト者であれば、自分ということとキリスト者であることを調和させていくこと、司祭であれば、自分であることと司祭であることが調和していくこと、母親であれば、自分であることと母親であることが調和していくことです。別の見方をすれば、本来の罪人である自分と、自分の生きなければならないものの間にギャップがあるということです。というか、ギャップがあることが当たり前で、そのことに先ず気づくことが大切になります。イエスさまの眼差しは、わたしたちが罪人であるのと同時に愛されたものであることに気づかせてくださいます。そのギャップをわたしたちは、自分の力で埋めることは決して出来ません。だから、イエスさまの眼差しにふれ、わたしを変容してくださるイエスさまの働きに自分の身を委ねていかなければならないことに気づく、それがイエスさまに従いたいという望みとなってくるのです。それが召命ということです。ですから、いつもわたしのなかで何かをされるのは、わたしではなく、イエスさまであることに気づいていく変容のプロセスが、召命を生きるということです。今日、わたしたちを見つめるイエスさまの眼差しの下に、わたしたちが己を晒すことの大切さを味わってみたいと思います。そして、わたしたちひとり一人が、イエスさまから呼ばれていることに心を留めましょう。

2021年01月21日