年間第4 主日 マルコ 1 章 21~28 節

年間第4 主日 マルコ 1 章 21~28 節

今日の福音の中で、会堂でのイエスさまの話に驚いた会衆の反応が報告されています。「律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである」と書かれています。律法学者はモーセの律法をよく知っていて、知識も豊富で、律法をよく研究していました。だから、度々、安息日に会堂で聖書を朗読し、教えていました。彼らは教えるという立場にいましたから、律法をよく知らない人たちから、尊敬されていました。それで、自分たちはモーセの後継者であるかのように振舞い、偉いものであるかのように錯覚してしまっていたのでしょう。彼らは、律法をどのように守るかを事細かに教えていましたが、勿論教えることは正論ですから、誰も文句をつけようがありません。教会の教えも同じで、確かに正論ですが、その教えが何のためにあるのかを忘れてしまえば、意味をなくしてしまいます。

イエスさまが会堂でお教えになったとき、人々は非常に驚いたとあります。それは、律法をよくっていた律法学者やファリサイ人の教え方とは違っていたようです。律法学者やファリサイ人は確かにモーセの律法をよく知っていましたから、その知識を伝達することは出来たのでしょう。しかし、彼らの話は会衆の心を打つことはなかったということだと思います。彼らのしていたのは律法の研究と解釈であって、律法に新たな釈義を加えるということだけで終わってしまっていました。そして、人々に教えていましたから、それは自分の知識や解釈の受け売りで、情報提供でしかありませんでした。でも、普通、人間は自分より情報をもっている人や肩書、地位ある人には弱いので、そのような人を表面的には敬うような態度を取りがちです。そして、人から敬われることは、人間にとって快楽ですから、その人もその気になって、自分が偉いものであるかのように錯覚してしまいます。イエスさまの時代のユダヤ教は、神殿中心の儀式を大切にするサドカイ人、律法を大切にする律法学者やファリサイ人が表面上は敬われ、彼ら自身も権力者であるかのように振舞っていました。しかし、一般の人々は日々の生活で精一杯で、形式化したユダヤ教のあり様を苦々しく思いながらも、それ以外の拠り所もなく、従うことしか出来ませんでした。そのような、状況の中に登場したのがイエスさまです。イエスさまはすべての人が認め、進んで聞きたいと思うような話をなさいました。律法学者と何が違ったのでしょうか。彼らがどれだけ律法について話しても、それは所詮、情報提供にすぎませんでした。しかし、イエスさまは自分の中から出てくる力、権威によってお教えになったのです。律法学者たちは、自分の学識や地位で人々を教えようとしましたが、イエスさまは自分の内から出てくる内的な力、受け売りではない真(まこと)で、お話になりました。だから、誰もがイエスさまの話を聞きたがったのです。

これは現代においても同じでしょう。いろいろな教皇様が文書を出されていますが、難しくて、分かりにくくて、人の心を打ちません。本当に、皆に伝える気があるのかなと疑問に思ってしまいます。言っておられることはたいそう立派で正論ですから、表立っては誰も文句をつける人はいません。でも、何も伝わってきません。イエスさまは難しいことは何も話されませんでした。いろいろなたとえ話が残されていますが、人々の生活の中から、野の花を見なさい、空の鳥を見なさいと言って、すべての人を区別することなく配慮される神さまの姿を、優しく語りかけられました。それが、皆の渇き切った心に響いたのでしょう。そして、イエスさまの内側からあふれてくる力は、悪霊がイエスさまの正体を見破ってしまうような内的権威にあふれていました。そして、そのイエスさまのことばは、一言で悪霊を追い出すことが出来るほどの力がありました。イエスさまの教えは単なる知識や教えの伝達、綺麗ごと、美辞麗句ではなかったのです。何年も悪霊に取りつかれている人を見て、その人の苦しみを一瞬のうちに心から理解し、その人を苦しみから解放し、自由にすることが出来るような力あることばだったのです。だからこそ、誰もがイエスさまの話の中に真実を見出し、イエスさまの話に耳を傾けました。これがだれも奪うことのできない内的権威です。それに比べて、律法学者が自分の勉強や努力で手に入れた、知識や権力などは所詮、借り物でした。

かといって、イエスさまの教えやことばは魔術ではありません。わたしたちの信仰がなければ、わたしたちの関心によってどのようにでも受け取ることも出来てしまいます。イエスさまのことばは、わたしたちを快適にすることばではなく、わたしたちの知識を増すものでもなく、わたしたちの生き様を問う、生きたことばなのです。イエスさまのことばを聞いて、いいお話だったといって納得するようなものではありません。それだけなら、自分の利益のためだったり、自分の思い込みの信仰に情報を積み重ねているだけで、律法学者と何ら変わりがありません。イエスさまのことばを聞くことは、わたしが納得し、腑に落ちるのではなく、わたしたちの腹が落ちること、自分自身が破られていくことに他なりません。イエスさまの教えは、頭で分かっても救われません。分かったのはあくまでも自分であって、自分のイエスさまについての知識に新しい知識を追加しただけにすぎません。そうした自分自身のあり方自体が苦しみの原因なのに、幾ら聖書を勉強しても、教えを学んでも、その自分が問われ、破られることがなければ、わたしたちは救われることはないからです。それなら、律法学者と同じです。カトリック教会の大きな誤りは、勉強して分析したら分かるという思い上がりです。イエスさまに聞き、触れるとき、わたしたち人間の小さな考えなど吹き飛ばされてしまいます。イエスさまを信じるということは、わたし自身が問われるということでしょう。そして、その気づきからしか真の信仰は、はじまらないのです。今日の福音を味わいながら、イエスさまに聞くことから信仰がはじまることを改めて心に留めましょう。

2021年01月29日