復活の主日 ヨハネ20章1~9節

「復活の主日 ヨハネ20章1~9節」

毎年、復活の主日の福音朗読はヨハネの個所が読まれます。今年はコロナウイルスの感染拡大のために、教会共同体として皆が一緒にイエスさまの復活をお祝いすることができません。でも、2000年前のイエスさまの復活もきっと誰もが祝うということがない、ひそやかな復活だったのではないかと思います。わたしたちは毎年、盛大に復活祭をお祝いします。しかし、あの時のイエスさまの復活は誰も知らない、静かな出来事だったのではないでしょうか。イエスさまが十字架の上で亡くなり、墓に葬られた後も、同じように日が昇り、同じように人々の営みが続き、人々の苦しみも続いていきました。そして、いつもと何も変わらない日曜日の朝が来ました。それがイエスさまの復活の日曜日でした。

なぜならイエスさまの復活は、皆が見て確かめられることのできるような出来事ではなかったからです。今日読まれた福音は、日曜日の朝早くに、マグダラのマリア、ペトロともうひとりの弟子がイエスさまの葬られた墓に行きましたが、イエスさまのご遺体がなくなっていたそれだけのことしか書かれていません。彼らの心の中には、イエスさまが復活されるという考えは一切見られません。彼らはイエスさまが死んでしまったとの絶望の淵に突き落とされたままでした。彼らにとってはイエスさまの十字架の死は、自分たちが尊敬していた先生の活動の失敗、挫折でしかなかったからです。「神と民全体の前で、行いにも、言葉にも力ある預言者(ルカ24章19節)」であったイエスさまが、死を前にして全く無力になってしまわれた、そのイエスさまの屈辱、苦しみ、死は弟子たちを闇の中に突き落としてしまいました。イエスさまのご遺体がなかったこと、墓が空になっていたという事実させも、彼らに光を与えることはできなかったのです。「イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、理解していなかったのである」。彼らはこの闇の中にとどまったままなのです。

イエスさまは復活され生きておられます。しかし、弟子たちの目は遮られていて、その光を見ることができません。イエスさまは復活され、すでに弟子たちはイエスさまの光の中に納め取られているのにもかかわらず、その光が見えません。イエスさまが復活されたということは、歴史的に証明できるような事実ではありません。むしろ、イエスさまの十字架の意味を理解することによってのみ、わたしたちの中にイエスさまの復活が現れ出ると言っていいでしょう。イエスさまは十字架にかかられることによって、人間として堕ちることのできる最も底まで堕ち、イエスさまは本当にわたしたちのひとりとなられました。イエスさまはわたしとなられたのです。闇の中でもがいているすべての者とひとつとなられたのです。だから誰も、今後「イエスさまはわたしのところには来てくださらない。わたしと出会うために、わたしのどん底まで降りてきてくださらなかった」とは言えないのです。なぜなら、誰もイエスさまが堕ちられたそのどん底まで、堕ちることはできないからです。これがイエスさまの十字架です。十字架はイエスさまの愛の完全な啓示、イエスさまがわたしとひとつになられたということなのです。イエスさまの復活とは、このイエスさまの完全な愛が、わたしたちに大接近し、光となってわたしたちをすっぽりと覆いつくしたということです。わたしたちに残されていることは、わたしたちがその光に目を開くということです。

しかし、わたしたちもイエスさまが十字架の上で体験されたように、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」としか言うことができないのが現実でしょう。すでにイエスさまの光の中に納め取られているといっても、わたしたちは目が遮られていて、そのことをまだ信じることができないでいます。今年のようにコロナウイルスが全世界を覆いつくしているときには、ましてそうでしょう。そして、その光を見ることができないことこそが、わたしたちの囚われ、弱さ、業(ごう)、罪と言ってもいいでしょう。しかし、にもかかわらず、そのようなわたしたちをイエスさまは復活の光で、倦むことなく絶えることなく、優しく、暖かく照らし続けておられるのです。そこに大きながギャップがあることも事実です。しかし、そのわたしのままで、そのことに感嘆し、感謝することが復活祭でしょう。だから、今、わたしたちができることは、「わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じています(Ⅰヨハネ4章16節)」と念じることなのではないでしょうか。

2020年04月24日