年間第24主日 マタイ18章21~35節(ユン師)

年間年間24主日 勧めのことば

マタイ福音で教会は神の国を可視的に表している兄弟的共同体を示しています。
‘兄弟愛‘とは共同体構成員の一人一人の相互責任を基づいて絶えず助け合い赦しと和解の場です。私達は今日もごミサの中で神の小羊が捧げられ私たちの為に死んで下さったこと。つまり神様が捧げられることで全ての罪をゆるしてもらう体験をすることになります。

ユダヤ教では罪をゆるされるためには、それに見合うふさわしい賠償をしなければなりませんでした。軽い罪なら鳩一羽を祭壇に捧げるだけでいいのだけど、重い罪なら牛一頭になる。相手が神様だったら、この世のものでは償えないので、宇宙を捧げたらところでゆるされはしません。

今日、福音の主君が家来の借金を全部帳消しました。しかし、それは、単純にお金の問題ではなく同等な兄弟的な関係として受け入れると意味です。同じマタイの福音書には「小さいものの一人にしたのは私にした」とあります。 

愛と赦しだけが私たちが結んでいる全ての人間関係を新しくすることが出来るのです。人々の間、全ての関係の中で絶対的な規範は愛と赦しです。

許すことは感情的なことではなく、一つの姿勢と行動の実践です。真の赦しは神の恵みから生まれます。

今日の福音のように私たちは赦しを要求するのは早いですが、赦しを与えるのは難しいです。自分に対しては寛大、相手には厳しい過ぎる姿勢と行動です。考えられない沢山の負債を全部帳消しされたのにも関わらず仲間に対して憐れみはなかったのです。一万タラントン許してもらった人が、100デナリをゆるさなかったとき、七の七十倍のゆるしがなくなってしまいました

今日の福音を通して、イエスは私たちを相手の立場に立つことを促します。私がお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。
神様のゆるしの条件は「あなたも出かけていって、神がされたことと同じことをしなさい」というものです。
許されて、愛されたことを忘れないように。または神の前に立った自分自身のことを考えるように教えます。立場をぎゃくに立って見ると全てが違って見えます。神や人からゆるされない人は、自分でゆるされることを断っている人のことなのでしょう。

「ゆるす」ということは、「人間が新たに始めることが出来る存在であると信じること」です。赦しとは、生活が平安になるための「停戦」ではありません。実の許しとは、神が私たちにおいてなさる「新たな創造」なのです。

 

2020年08月28日