四旬節第1主日 マルコ1章12~15節

四旬節第1主日 マルコ1章12~15節

四旬節に入りました。古代教会では3世紀の半ばから、主の過越しの3日間を祝う習慣が定着してきました。その3日間の準備をするために、四旬節の期間が定められました。最初は期間もバラバラでしたが、イエスさまの宣教活動前の40日間の荒れ野での滞在に倣うときとして、40日間となっていきました。四旬節は6週間に亘って、主の過越しを準備するとともに、洗礼志願者が共同体の祈りに支えられて、最後の準備をする期間にもなりました。また共同体も洗礼志願者とともに歩み、自分たちが受けた洗礼の恵みを更新するときでもあるわけです。

共観福音書では、イエスさまの荒れ野での滞在を描きますが、いずれにも共通していることは、この荒れ野での滞在の主導権を握っているのは、聖霊であるということです。荒れ野では、悪魔からの誘惑をも受けられますが、-マタイ、ルカは3つの誘惑として描いている-マルコはその中身を問題にしていません。むしろ、マルコにのみ見られるのは、「野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた」という記述です。これは、救い主、メシアが来られたときの新しい世界、秩序を現わしています。イザヤ書にみられる、平和の王の記述を彷彿とさせます。「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その根からひとつの若枝が育ち、その上に主の霊がとどまる…狼は小羊と共に宿り、豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち、小さい子供がそれらを導く。牛も熊も共に草をはみ、その子らは共に伏し、獅子も牛もひとしく干し草を食らう。乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ、幼子は蝮の巣に手を入れる。わたしの聖なる山においては、何ものも害を加えず、滅ぼすこともない(11章)」。そこでは、普段は一緒にいることが出来ないもの、狼と小羊、豹と子山羊、子牛と獅子、幼子と毒蛇、蝮がともにおり、共存しえないものが共にある世界が描かれています。まさに争い、敵味方によって分断された世界が崩壊し、新しい世界が始まっている姿が描かれます。これは、神の国が、イエスさまの登場によって始まっていることを現わしているともいえます。荒れ野は誘惑の場所ですが、同時に神の国の到来を現わす場所でもあることが分かります。荒れ野や砂漠というのは、それゆえに、いのちが危険に脅かされる場所でもあり、同時に恵みの場所でもあります。

それではわたしたちにとって、砂漠とは何でしょうか。砂漠は、わたしたちの普通の常識が通用しないところです。例えば社会的な地位とか身分、能力、科学など、一般社会で評価されていること、常識的なものの見方や考え方、性別など何も通用しません。わたしたちの日常が剥ぎ取られるところ、ただひとりの人間であることを強烈に意識させられるところ、それが砂漠です。四旬節になると、灰の式、大斎、小斎や犠牲ということが言われますが、習慣的に、規則として、自己満足として行っているのであれば、大した意味はありません。四旬節にしなければならないことは、わたしたちが砂漠を体験することです。

砂漠を体験するとはどういうことでしょうか。以前、巡礼で、ヨルダンの砂漠に行ったことがあります。そこにあったものは、一面に広がる赤い砂の大地と水平線、そして青い空、それだけでした。ひと時、その砂漠を歩くことを体験しましたが、そこでは、ただ、大地と空とわたしだけがあるということを強烈に意識させられました。空と大地が触れ合い、あとはわたし以外何ものもないことを否応なく思わされます。そして、砂漠はこの上なく美しい、しかし、砂漠は電気も何もない世界、水がなければ生きていけず、いのちが脅かされるところでもあります。昔の歌謡曲の異邦人が、聞こえてきました。さて、そこで人は何を思うのでしょうか。一杯の水があれば、あとは自分と向き合うことしかないのではないでしょうか。砂漠は、わたしがわたしと向き合うところ、わたしがわたしになるところです。そして、神さまと出会うところです。

わたしたちが生きている現代社会は、何もかもすべてが手に入り、街にはネオンが煌めいて、自分のことなど真面目に考えなくても大丈夫というようにささやきかけてきます。その中で、人は果たして神を必要とするでしょうか。救われたいと思うでしょうか。「荒れ地の渇き果てた土のように、神よ、わたしの神よ、わたしはあなたを慕う。水のない荒れ果てた土地のように、わたしの心はあなたを慕い、からだはあなたを渇き求める(詩編63)」と詩編作者のような気持ちになれるでしょうか。この現代という時代は、人間に富と繁栄、多くの情報や快適さをもたらしましたが、わたしたちが自分の心と向き合う機会を奪ってしまったのではないでしょうか。渇き果てた土が水を求めるように、わたしのうちに神さまを慕い求める心を、わたしたちはイエスさま以外のもので満たしてしまっているのではないでしょうか。現代人は、「わたしは神さまなしでも大丈夫」と思えてしまうほど、わたしたちの感覚は麻痺してしまっているのかもしれません。それなら、わたしたちは意識的にでも砂漠を作り出すこと、砂漠を体験すること、そこに四旬節の意味があるように思います。今、このコロナ禍の中で、いのちさえも脅かされる中で、これはわたしだと思っていた日常が音もなく壊れていくのを体験しています。コロナなんて、大丈夫と言って悟りきったような顔をし、それさえも見つめようとしない人もいますが… それでは、今年、あなたはこの四旬節をどのように過ごしますか。

2021年02月21日