四旬節第 2 主日 マルコ 9 章 2~10 節

四旬節第 2 主日 マルコ 9 章 2~10 節

毎年、四旬節の第 2 主日には、イエスさまの変容の箇所が朗読されます。この箇所は、イエスさまがガリラヤでの宣教活動に終止符を打って、ユダヤ教の総本山のあるエルサレムへと向かう、その旅の途中で起こった出来事です。この旅の中で、イエスさまは、自分がエルサレムでどのような死に方をするか、三度、話されますが、その最初の予告の直後に、今日の変容の箇所が置かれています。特に、マルコ福音書の大きなテーマは、「イエスとは一体、誰か」ということですから、一貫してそのテーマで語られていきます。そもそも、マルコ福音書は 16 章 8 節で終わっており、その後の結びの1と2の部分(16 章 9 節~20 節)は、後代の加筆であると言われています。マルコはイエスの復活について何も詳しくは語らず、日曜日にマグダラのマリアたちが、イエスさまが葬られた墓に行くと、墓は空で、天使が「あの方は、あなたがたより先にガリラヤに行かれる」という話で終わっています。それで、イエスさまの宣教活動の原点であったガリラヤに行く。そして、最初から、福音を読み直すという構造になっています。ガリラヤは、弟子たちがイエスさまと出会って、ともに生活し、活動した土地であり、わたしたち読者にとっても、イエスさまとの出会いの場でもあるのです。イエスさまの変容は、そのガリラヤをあとにして、いよいよ、エルサレムに向おうとされている矢先での出来事でした。エルサレムに上るというのは、それなりの覚悟の上での旅だったでしょう。

イエスさまは、3 人の弟子たちとともに高い山に登り、栄光に輝くご自身の姿を現されました。そして、弟子たちには、天から「これはわたしの愛する子。これに聞け」という声を聞きます。この「愛する子」という表現は、イエスさまの洗礼のときにも、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」ということばとして出てきています。そして、「わたしの心に適う者」という言い方は、このことばだけを聞くと、イエスさまのメシア(救い主)としての適性を言っているのではないかと思ってしまいます。しかし、「わたしの心に適う者」という訳は、本来の意味を現わしていません。元々の意味は、「あなたはわたしの喜びである」という意味なのです。つまり、イエスさまの存在自体が、生きとし生けるもの、目に見えるもの見えないもの、全宇宙にとって「喜び」であるという意味なのです。

わたしたち人間の根本的な要求は、自分が必要とされたい、自分の存在を喜んでくれる人がいてほしいということだと言ってもよいでしょう。自分が誰からも必要とされないことこそ、人間にとって一番辛いことかもしれません。しかし、イエスさまが洗礼のときに聞かれたその言葉は、わたしたちひとり一人にも言われている言葉だと言っていいでしょう。「あなたはわたしの目に値高く、貴い(イザヤ 43:4)」と言われるように、わたしたちひとり一人は、誰一人例外なく、神さまの目には貴いもので、喜びなのだということでしょう。イエスさまは、ご自分の洗礼のときに、人類の代表としてそのことをご自分が体験されました。だから、イエスさまは、すべての人が一人の例外もなく、大切で、貴くて、そこにいてくれるだけで喜びであるのだ、ということを人々に宣べ伝えようとされました。それが、イエスさまのガリラヤでの宣教活動の核心だったのだと思います。その核心が、イエスさまの教え(言葉)となり、人々の病気を癒したり、悪霊を追い出したりというイエスさまの活動(行い)になっていきます。イエスさまが皆に伝えたかったことは、自分が体験されたその喜びであったといえるでしょう。

しかし、イエスさまの思いは、人々に理解されず、また、一番近くにいて全てを分かち合ってきた弟子たちにも理解されませんでした。ある意味で、イエスさまはご自分の宣教活動の中で、大きな挫折を味われたのです。そのような状況の中で、何とかその思いを伝えたい一心で、ユダヤ教の総本山であるあるエルサレムを目指されたのではないでしょうか。その歩みの中で、イエスさまは栄光に輝くご自分の姿を弟子たちに示し、人々 から遺棄されて、苦しみのうちに死んでいく、「すべての人の身代金として自分のいのちを捧げるために来た(10:45)」のが、メシアである自分の生き方であり、それに聞き従ってほしいという思いを伝えようとされたのではないでしょうか。しかし、弟子たちの中にあったものは、イエスさまに対する誤ったメシアのイメージ(8:31~37)であったり、自分たち 12 人の弟子の中で誰が一番偉いかという主導権争い(9:33~37、10:35~45)であったり、小さい自分の世界、権力と名声という価値観の中で蠢いていました。ですから、弟子たちは、イエスさまの思いを聞こうともしません。栄光に輝くイエスさまの姿は、却って弟子たちの思い込みを強化することになってしまいました。だから、「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことを誰にも話してはいけない」と命じられたのでしょう。それでも、イエスさまは、「弟子たちとともに一緒に(9:8)」留まられます。その時のイエスさまの孤独、心痛はどれほどのものだったでしょうか。この出来事を話してはならないと命じられた 3 人の弟子たちは、その真意が分からず、これはどういう意味だろうと論じ合っています。弟子たちが、本当の意味でイエスさまのことを理解したのは、復活されたイエスさまと出会い直してからのことでした。だから、マルコの福音は、もう一度、ガリラヤに戻って、イエスさまとの歩みを続けなさい。そこで、わたしのことが見えてくる、心に響いてくると言われたのではないでしょうか。

わたしたちにとっても同じです。エルサレムの旅に先立って、ペトロがイエスさまに「あなたは救い主です(8:29)」と立派な信仰宣言したように、わたしたちも信仰宣言することは簡単なことです。でも、イエスさまは、あなたにとって、どういう意味で救い主ですかと問われれば、答えられないというのが正直なところではないでしょうか。わたしたちも、わたしのガリラヤ-わたしたちの平凡な毎日の日常生活の中で-で、イエスさまと出会い直していかなければならないのでしょう。わたしたちは、イエスさまのことを、実はまだ何も知らないのかもしれません。永遠であるイエスさまとわたしたちの関りは、無限に深まっていく可能性があります。もう遅い、ということは決してありません。今日は、そのことを、わたしたちも自分自身に問いかけてみましょう。

2021年02月25日