2022/03/20 四旬節第3主日 ルカ13章1~9節 勧めのことば(北村師)

四旬節第3主日 ルカ13章1~9節
あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる

今日の箇所は、ルカだけに見られる固有の箇所となっています。そこでは、二つの出来事が述べられています。ひとつはピラトが、ユダヤ人が生贄を捧げるために集まっていたとき、ガリラヤ人の血を混ぜた、つまりガリラヤ人を見せしめのために血祭りに上げたこと、もうひとつは、シロアムの塔の改修工事中に塔が壊れて犠牲者が出たという話です。いずれも歴史的に確認されてはいません。ただ、当時の一般的なユダヤ教の考え方で、この世に起こる災害で被災する人々は、災難を受けなかった人より罪深かったからだと考えるのが一般的でした。それで、災難を受けなかった人は、自分はあの人たちのように罪人でなくてよかった安心するのが一般的であったようです。それはユダヤ教に限らず、原因があるからそれに等しい結果があると考える因果応報、自業自得という発想が人間のなかにあるのではないでしょうか。人間は皆弱いので、自分に災難が降りかかってくると、神仏の罰が当たったのだとか、先祖の報いが自分に及んでいるのだと考えます。それは、人間は誰しも完璧ではないし、人には言えないようなことを抱えていたり、思ったりやったりしているからでしょう。わたしたちは誰も、イエスさまの前に大手を振って立つことができるものはいません。それでは因果応報、自業自得という考え方をどのように捉えていけばいいのでしょうか。

今日の福音では、イエスさまは「彼らがそのような災難に遭ったのは、他の人々よりも罪深い者であったと思うのか」と問われています。そして、「決してそうではない」といい、短絡的な因果応報という考え方は否定されました。それは、わたしたちひとり一人への悔い改めへの呼びかけであると言われました。しかし、現実問題として、この地上で起こるいろいろな出来事をどのように考えていけばいいのでしょうか。

この宇宙の生きとし生けるものは、すべてお互いに関わり合って生きています。通常、わたしたちはわたしの自分の小さな言動や何かが、よもや世界の動きに何ら関係することはないと思って生きています。地球の裏側で起こっているウクライナの戦争を、今でこそSNSやメディアの進化により、わたしたちはリアルタイムで情報を手に入れることができます。しかし、100年、200年前であれば、そのことを知る由もなく、かなり時間が経ってから知る、あるいは他人事で終わっていたかもしれません。その一方で、日本のことわざに「風が吹けば桶屋が儲かる」というものがありますが、それは、ある事象の発生により、一見すると全く関係がないと思われる場所・物事に影響が及ぶたとえとして言われています。現在の力学系で、バタフライ効果ということばがあります。蝶々の小さな羽ばたき、そのわずかな変化が、その後の生態系が大きく異なってしまうほど大きな影響を及ぼす、予想もしていなかったような大きな出来事につながるということを意味しています。まさに現代版の「風が吹けば桶屋が儲かる」です。実はこの力学の考えは、この世界、この宇宙は決して夫々のものがバラバラに無関係に存在しているのではなく、お互いが関わり合って、呼応し合って、響き合って存在している関係存在であることを言おうとしているのだと思います。

そのことを、パウロは「あなたがたはキリストの体であり、また、ひとり一人はその部分です(Ⅱコリ12:27)」といいました。「神は、ご自分の望みのままに、体に一つひとつの部分をおかれたのです。すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるのでしょうか…目が手に向かって『お前はいらない』とは言えず、また、頭が足に向かって『お前たちはいらない』ともいえません…むしろ各部分が互いに配慮し合っています。ひとつの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、ひとつの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです(同」12:18~26)」と言いました。人間の体は夫々の部分によって成り立っていますが、部分だけでは人間ではありません。体のたとえを用いて、人間はあらゆる関りのうちに成り立っている関係存在であるということが言われているのです。このことは、わたしたち人間のことだけでなく、全人類、自然、地球、全宇宙にまで、その関りは及んでいきます。この世界、この宇宙はわたしと無関係ではなく、わたしもこの世界、この宇宙と無関係ではありません。夫々が関わり合って、響き合って、わたしを、この世界を、宇宙を、いのちを形作っているのです。

古来、日本人は「わたしとこの世界はひとつである」というような世界観、生命観を当たり前のこととしてもっていました。しかし、ギリシャ、ローマ、ヨーロッパの文化は、細かく分け、細分化することによって世界を、生命を理解しようとしてきました。まさに、パウロがいう反対のこと、「目が手に向かって『お前はいらない』と言い、また、頭が足に向かって『お前たちはいらない』と言ってきたのだ」と言えるでしょう。つまり、わたしと他者、世界は別々で関係ないと言ってきたのです。その行きついた先が戦争、分断、分裂、区別でした。今こそ、わたしたちは聖書のことばに立ち返って、本来のいのちがもっているあり方に立ち帰るように呼びかけられているのではないでしょうか。イエスさまの「言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」というのは、脅しではなく、わたしたちが本来のいのちのあり方へと回帰するようにとの呼びかけに他ならないのです。そして、そのいのちの感覚にわたしたちが立ち帰るとき、この世界に起こるすべてのことは、もはや他人事ではなく自分事となっていくのです。

2022年03月18日