私たちはすでに復活の命を生きている
イエズス会司祭 柳田 敏洋
2023年1月4日に父が100歳で亡くなり、この1月8日に母が97歳で亡くなりました。家族を父親の役割と母親の役割を通して支え、子どもたち一人ひとりをこよなく愛してくれた二人、また二人ともカトリックの信仰に熱心であった姿から、改めて、主の復活を祝うにあたり、復活の命とは何かを考えたいと思います。
私の実感としては亡くなった父と母が私の身近におり、いつも共にいてくれるという感覚で、ほとんど寂しいとか、やるせないとかを感じることがありません。これも復活を信じる信仰が背景にあるからと思います。
- 現実の私とその奥にある「私そのもの」-
けれども、これをより確かなものにできないかを考えてみたいと思います。私の最近の関心は「私とは何者か」ということです。例えば、私はカトリックの男子修道会イエズス会に属する司祭で柳田敏洋という名前です。両親は日本人で、京都で育ち衣笠カトリック教会にずっと通っていました、と私について説明することができます。また、このような顔立ち背格好をしているとも説明することができます。生物学的には私の遺伝子(DNA)を示すこともできるかもしれません。このような説明でだいたい人は「柳田敏洋」という人物を見分けることができ、また私も「私はイエズス会の司祭で柳田敏洋と言います」ということで自分を理解し、それで生きています。そしてこのことでほとんど何の支障も生じません。
しかし、ここから更に本当のところ「私とは何者か」を突き詰めていきたいと思います。私の名前は柳田敏洋ですが、名前が「私そのもの」ではありません。両親が私につけてくれた名前が柳田敏洋です。同じように、私はイエズス会の司祭ですが、イエズス会の司祭が「私そのもの」ではなく、私の身分がイエズス会の司祭ということです。また、私の顔と「私そのもの」はほぼ同じものとして考えられがちですが、私の顔は「私そのもの」ではありません。私自身がこのような顔を持っているということです。このように丁寧に見つめていくと「私そのもの」は名前でも、身分でも、顔や背格好でもないことが分かります。「私そのもの」が名前や身分や顔や背格好を持っているということです。
では、「私そのもの」とは何でしょうか。「私そのもの」は「私そのもの」であり、それ以外の何者でもありません。そして、これは私だけが、まったく当たり前のこととして感じることができるものです。これは直観と言えます。でも、面白いことに、この直観を生物学的にも医学的にも証明することはできません。
-「私そのもの」の不思議-
ちょっとこんな想像をしてみましょう。医療技術が発達して私の遺伝子DNAから私とそっくりのコピーを作り出すことができるとします。そのそっくりのコピーは顔や背格好だけでなく、脳の神経細胞のネットワークも同じで、しゃべり方や考え方も同じだとします。そして、私が聖堂で四旬節の講話をしていて、ちょっと中座をした間にそのコピーが入ってきて続きの話をするとします。聖堂にいる皆さんはそれがコピーだとはまったく気づきません。その時に私が戻ってきて、「何でコピーのお前がここにいる」と叫んでも、皆さんはどちらが本物か分かりません。そして、お互いが自分が本物だと説明しても全く区別がつきません。すべて生物学的に調べても医学的に調べても全く同じです。つまり、この世的にはどちらが本物かを証明できません。
しかし、私はまったく直観的に確かに相手がコピーだと判断できます。このような直観によって「私だ」と分かる私が「私そのもの」なのです。この私だけが「私だ」と分かる「私そのもの」は見ることも、取り出して人々に示すこともできません。これは実はとても不思議なことです。現代の脳科学者は大脳の中にこの「私そのもの」を見つけようとしていますが、そのようなものは見つかっていません。けれども「私そのもの」はまったく確かなものとして私に実感されます。
そしてまた興味深いのは、例えば私は今73歳ですが、50年前の私のことを思い出すことができます。まだずっと若かった20代の私となりますが、それ以来私の体の細胞は再生を繰り返し、変化し続けています。生物学的には体のどの部分も同じであり続ける細胞はありません。それなのに私は50年前の私を、確かに大学生だった時の私として理解することができ、その時の私はもちろん容姿などは変わっていても、同じ「私そのもの」であることが間違いなく分かります。この「私そのもの」の不思議は体のあらゆるものが変化していく中で、時間経過や場所の変化を貫いて首尾一貫した私として続いているという子とです。
-「私そのもの」は時空を超える存在-
つまり、こうしてみると「私のそのもの」は時間と空間を超えたところにあるということです。これを〈超越の私〉と名付けます。実はこのような〈超越の私〉があるからこそ、例えば私たちは自然科学の法則、万有引力の法則を発見することができるのです。時間と場所を変えて実験し、その結果をまとめる時に、時間と場所を超えた同じ私がまとめるからこそ法則を発見できるのです。
このように時間と空間を超えたところに「私そのもの」(超越の私)があるのです。そしてこのような「私そのもの」は、キリスト教的には「神の似姿」として造られた人間の特徴なのです。神は時間と空間に支配されず、かえって時間と空間を含む宇宙万物を創造された方です。その神の似姿として造られた人間は、その中心すなわち「私そのもの」において神と同じように、もちろん完璧にではなく部分的にですが、時間と空間を超える次元を持っているのです。
この「私そのもの」の持つ超越性が復活の命と結びつくのです。というのは、現実世界の私をこのような顔や背格好の私として成り立たせているのは、この「私そのもの」なのです。そして驚かれるかもしれませんが、この「私そのもの」はこの世の生と死をすでに超えているのです。
「私そのもの」はすでに復活の命を生きている
イエスは「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない」(ヨハネ11.26,
27)と仰いました。これはとても不思議な言葉に思えます。これを聞いたマルタも、一度蘇ったラザロも死んでいます。これはどういうことでしょう。生身の体を持つ肉体の私たちは、人生の終わりに皆死を迎えます。それは現実世界の私のことですが、「私そのもの」は決して死ぬことがないのです。体の死によって〈超越の私〉である「私そのもの」は愛と命そのものである神に戻っていくのです。この神秘がイエスの「生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない」の意味なのです。
深く見ていくならば私たちはすでに復活の命を生きているのです。復活の命は「私そのもの」と共にあります。そして私が、名前や身分や顔や背格好を超えてこの「私そのもの」に目覚めている時、また私が自分の感覚や感情や考えに気づいてそこから離れている時、その気づきは「私そのもの」です。その時、私はまったく自由な私として生きることができ、また無条件の愛アガペを生きることができます。どのような苦しみや闇の中にあっても、この自由が損なわれることはありません。ここに真の希望があります。
今年の聖年のテーマ「希望の巡礼者」を復活の命を生きる「私そのもの」に目覚めて歩んでいきましょう。