2026/1/25 イザヤ8:23b-9:3 (鶴山師)

イザヤ8:23b-9:3 1コリント1:10-13,17 マタイ4:12-17

鶴山師

 数か月前、雑誌を読んでいたんですが、東京大学の社会科学研究所で教鞭をとっておられる玄田有史(げんだゆうじ)先生という方が「希望」に関する記事を執筆されていました。玄田先生は、この研究所では希望学という学問を研究をしているそうです。記事を読んでおりますと、①日本において希望という言葉が広く使われるようになったのは、大正デモクラシーの頃からであるということ、②当時、希望というと実現は希(まれ)なのだが望まずには、いられないもの、というニュアンスが強かったとのことです。そして今回、希望学についてもう少し詳しく知りたいと思ってパソコンで検索をかけてみました。玄田先生は2004年ごろから希望学について構想を練っておられたようですが、当時は不況で、「希望がない」といったことがよく言われていた、と。では希望がないとはどういうことか、どうすれば「希望」が持てるのかについて研究してみよう、ということからだったそうです。玄田先生の文章で一番心惹かれたものは以下の文章です。今でこそ人手不足の時代ですが、20年くらい前は仕事不足の時代で、新卒の学生でもなかなか仕事が決まらないという時代がありました。書類選考に落ちまくって、そうすると「社会で自分が必要とされていないんじゃないか」と思ってしまう人も出てきました。そこで「ニート」という言葉が生まれるのですが、かといって正社員になれないからって人生もう絶対ダメかと言われると、そういうわけじゃありません。パートやアルバイトなり、それもそれで大変な仕事を経験していく中で、自分がこうすればみんなが喜んでもらえるということを探って諦めないでいると、転職や正社員へチャレンジしてうまくいくなんていうこともある。どんなに苦しい状況でも絶対に何もできないということはないんです。 現実がうまくいかなくて辛い。でも、それだけ直視していたら生きていくのが辛い。だから、ちょっとでも前向きに生きていきたいという本能が人間にはあるよな、とこの記事を読みながらそう思えました。

今日の第一朗読のイザヤ書について黙想する前に注解書などで調べてみました。私なりに理解できたことは、今日の第一朗読は紀元前8世紀、南ユダ王国の王ヒゼキアが若くして王に即位した際、その即位を祝ってイザヤが述べた言葉に由来するものであるということ。この当時、隣国・北イスラエルは大国アッシリアによって滅ぼされていたこと、当時南ユダ王国もアッシリアから圧迫を受けており、緊張した国際情勢だったということです。「ガリラヤは栄光を受ける」という言葉がありますが、実際のところは実現しなかったことであり、イザヤは希望を表明したということです。

先ほど述べたような緊張した国際情勢と不安な状況でイザヤが実現は希なのだが望まずにはいられないことを述べている、と言えると思います。このことを黙想した時に玄田先生の希望学のことを思い浮かべたわけです。人が生きていくためにはパンだけでなく希望が必要だと思いました。

そして福音書からもお話しします。天の国は近づいた。これは言い換えるとイエス様が私たちのすぐ近くに来てくださっているということです。 先ほどは人間にはつらい状況にあっても前向きに生きたい、希望をもって生きたいという本能があるのではないかというお話をしました。しかしイエス様が与えてくださる希望は人間の希望とは違います。当てのないものではありません。復活された方から与えられる希望です。そして自分のためだけのものではありません。イエス様との絆がある。あるいはイエス様からの励ましを感じる。だからこそ私たちは希望~実現は希なのだが望まずにはいられない~という気持ちを持ち、神の国を少しでも形にしたいという思いになるんじゃないかなと思います。

大塚司教様が年頭書簡で教皇レオ14世は2025年5月の就任直後から「一致」「橋を架ける」「希望」というテーマを繰り返し語っておられます、と述べておられます。イエス様との絆があれば自然にそうなると思います。イエス様の思いを日々の生活で少しでも形にしていきたいものです。

 

参考引用文献
・「希望はゴールではなくプロセス」   玄田有史  PHP2025年11月号
・「希望」が前提ではなくなった 現代日本における希望学 そして東大生活での 「希望」とは 玄田有史教授インタビュー https://share.google/U1xFjuLf4XGIli012 東大新聞オンライン
・新共同訳 旧約聖書注解Ⅱ P277

 

2026年02月02日