四旬節第4主日 ヨハネ3章14~21節

四旬節第4主日 ヨハネ3章14~21節

今日のヨハネ福音書の箇所は、イエスさまとニコデモとの対話で、福音の核心ともいうべき箇所が朗読されます。「神は、その独り子をお与えになるほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠のいのちを得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである(3:16)」。ここに、福音のすべてのメッセージが集約されていると言ってもいいでしょう。

ここで、まず注目すべきことは、「神は、その独り子をお与えになるほどに、世を愛された」といわれていることです。「独り子を世に与えた」、「世を愛された」ということは、一人のナザレのイエスという人物において実現した歴史的事実を指しています。さらに、わたしたちが生きている現在の今も、その出来事は続いています。つまり、その出来事は、イエスさまの復活によって、永遠における真実となったということです。イエスさまが、この地上にいらして人間として生き、ご自分のいのちを十字架上で全人類にお与えになったことは、2千年前の歴史的事実となった出来事です。そして、そのイエスさまの復活によって、それが現在、過去、未来にわたって、永遠の真実としてすべての人に及んでいることを意味しています。そして、その目的は、「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠のいのちを得るため、救われるためである」といわれています。つまり、イエスさまがこの世界に来られた目的は、わたしたち全人類の救いであるということです。わたしたちにとって当たり前のことかもしれませんが、これこそがイエスさまの願い、悲願であると言ったらいいでしょう。わたしが、救われたいと願うはるか以前に、すでにイエスさまによって願われていたということなのです。

しかし、よく考えてみると、イエスさまが人となってこの世界に来られ、十字架と復活によって、その救いのみ業を成し遂げられたということは、そのことによって、イエスさまの願い、悲願、つまり、全人類の救いは、すでに成就している、すべての人はすでに救われていることになります。どういうことでしょうか。

ここでひとつの問題が出てきます。「独り子を信じるものが」ということが、あたかも条件であるかのように述べられています。しかし、これは、信じることを救われるための条件としたり、信じない者を排除したりしているのではないと言えます。そうではなく、「独り子を信じるものが」ということは、イエスさまを信じると言いながら自分に都合よく信じている、何かあるとすぐ信仰が揺らいでしまう、そのようなわたし自身の現実の姿を見ることとつながっていくのではないでしょうか。つまり、イエスさまを信じないということは他人事ではなく、わたしの問題として捉えなさい、ということだと思います。わたしたちが、自分のことを振り返ってみるとすぐ分かることですが、自分に都合よく信じてみたり、こんなに頑張っていますと言ってイエスさまと駆け引きをしてみたり、何か大変なことがあると信仰が直ぐに揺らいでしまう。また、人を心から信じることができない、そうした己の現実を見たとき、こんなに勝手なわたしであるのにも関わらず、信じる信じないに関わらず、わたしたちを一人として漏らすことなく救おうとされるイエスさまの願いに気づかせていただくことになるのではないでしょうか。ですから、ここで言われている「信じる」ということは、「信じない人たち」のことを排除するという意味ではなく、そこまでして全ての人類を救おうとされるイエスさまの願い、悲願の広さ、高さ、深さを指しているのだと言えるでしょう。イエスさまが、自分のことを信じる人は救うが、信じない人は救わないといった、了見の狭いことを言われると考えることは不可能です。勿論、洗礼の有無に関わりなく、全人類を一人も漏らすことなく救い取らずにはおれない、イエスさまの願いを述べているのだと言えるでしょう。こうして、今日の第2朗読で、わたしたち人類が救われたのは、「自らの力によってではなく、神の賜物です。(わたしたちの)行いによるのではありません」といわれることが明らかにされていきます。これが、仏教でいわれる「摂取不捨(せっしゅふしゃ)」、誰をも見捨てることなく、一人も漏らさずに救いたいというイエスさまの願い、悲願に他なりません。

イエスさまの救いのみ業は、このようにすでに成就しているわけです。イエスさまの十字架と復活によって、全人類は一人として余すことなく救われている。イエスさまを信じる者だけが救われるというのではなく、救われがたい、このわたしをも余すことなく救うというイエスさまの願いを信じることこそが、イエスさまを信じるということなのだということが明らかにされていきます。そもそも、信仰は、わたしたちの心の持ち方や精神論ではありません。つまり、わたしの努力や自力で、わたしの心に引き起こせるものではなく、イエスさまからわたしたちに届いている救いの願いが、わたしの心の中で信仰として呼び起こされているのだと言ったらいいでしょう。信仰とは、全ての人を救いたいというイエスさまの願いが呼びかけとして、わたしのうちに届き、その絶対的な呼びかけが、わたしのうちに真の信仰として開花していくことに他なりません。だから、信じること自体が恵み、神の賜物、喜びなのです。信仰は、わたしたちがイエスさまにご加護を願ったり、自分の身勝手な欲望をかなえてもらうというような信心ではなく、また自分の力で頑張るとか、自分の根性で強くするような信念でもありません。わたしたちがイエスさまと出会うとき、いつもそのような自分の視点から一歩も出られない、わたしたちの根本的なあり方が問われます。その己の姿にも関わらず、イエスさまの救いの願いに気づくとき、「ああ~そうであったのか」と、わたしたちの内に引き起こされる自覚、喜び、平和、それが信仰であり、永遠のいのちなのです。新しいものが加算されるのではありません。すでにあったものを自覚することなのです。そして、それがあらゆる人とともに手を繋いで生きていく、神の国への一歩となっていくのではないでしょうか。イエスさまを信じることとわたしたちの生き方は別のものではありません。

2021年03月12日