聖なる過越しの3日間 2020年

「聖なる過越しの3日間 2020年」

聖なる過越しの3日間は、「主の受難と復活からなる」過越しの聖なる三日間と呼ばれ、典礼的には主の晩餐の夕べのミサに始まり、復活の主日の夕べの祈りまでを指しています。このことから分かるように、この「3日間」は、主の受難・死・復活を記念する一連の典礼です。実は、日曜日は1週間の週の初めの日で、イエスさまが復活された日であり、伝統的に主の日(主日)と言われてきました。そして、主日にミサがささげられるようになり、ミサはイエスの「受難・死・復活」の記念として祝われるようになってきました。中世では、イエスの十字架の死による人類の贖いのみが強調されて、ミサはイエスの十字架の犠牲の再現だといわれてきました。しかし、ミサはイエスさまが受難・死を通して、復活のいのちへ過ぎこしていかれたことを通して、わたしたちを死と暗闇の世界から新しい世界へと解放してくださったことを記念する感謝の祭儀なのです。

わたしたちたちは毎日曜日に、このイエスさまのいのちをかけた過越しをミサとして記念し、感謝の祭儀として祝っています。しかし、とくに1年間に1度、特にイエスさまが実際に過ぎこしていかれた時期がイスラエルの過越祭と重なっており、日時が特定できますので、その時に合わせて、過越しの聖なる3日間として祝うということになっています。ですから、この3日間の祝いは、ある意味で特別なものではなく、通常、わたしたちが日曜日ごとに祝っているイエスさまの「受難・死・復活」を、3日間かけてじっくりと味わい、記念(想起)し、感謝していくということになります。その意味で、1年に1度の復活祭は大きな復活祭であるのに対し、毎日曜日は小さな復活祭であるといえるでしょう。日本でいう祥月命日は毎日曜日にあたり、命日は復活祭にあたります。

そして、この大きな復活祭は3日間にわたって記念されます。第1日目は主の晩餐の夕べのミサと聖金曜日の主の受難の祭儀に当たり、第2日目は聖金曜日の夜から聖土曜日の夜までで、キリストの葬りを記念し、1年間で唯一ミサが行われない日に当たります。第3日目は復活徹夜祭と復活の主日の日中のミサが行われます。聖なる3日間を木・金・土曜日の3日間だと思われている方も多いかもしれませんが、そうではありません。

第1日目はイエスさまがいのちをかけて、わたしたち人類を迷いから救おうとされた出来事を記念します。主の晩餐の夕べのミサは、まさにイエスさまがこれからしようとしておられることをわたしたちが世の終わりまで、忘れないで記念し続けていくために、イエスさまが制定された感謝の食事です。そして、ミサで行われることをイエスさまは十字架の上でご自分の体を裂き、血を流さすことで実際に行われました。

第2日目はイエスさまの葬りを記念します。これはイエスさまがわたしたち人間誰もが体験する生物としての死の世界を体験されたということです。わたしたち人間が皆そうなるように、イエスさまは死者としてとどまっておられたのです。それは唯々、わたしたち人間とひとつになりたいという願いからでした。イエスさまは人間とひとつになるためにすべてをおこないたい、人間のすべてを味わい尽くしたいと願われたのです。

そして第3日目はイエスさまが、人間にとって決して誰も今まで克服することができなかった死を乗り越えられた出来事として、新しい復活のいのちへと移っていかれたことを記念します。復活がどのようなものであるかを言葉で上手く説明することはできません。唯、もはや死も生もない新しいいのちの段階に入っていかれたということでしょうか。しかし、それは今までわたしたちが生きてきた別のいのちというよりも、同じいのちをバージョンアップしたようなものだといえるのかもしれません。芋虫がある時期になると死んだようにさなぎになり、その時が来れば蝶となって新しく大空に舞い上がるようなものです。わたしたちはあの芋虫と大空を自由に飛び回る蝶が同じ生き物であるとは、見た目には思えないものです。でも芋虫も蝶も同じいのちを生きているのです。同じようにわたしたちもすでに神と同じいのち、永遠のいのちを生きているのです。わたしたち人間は誰しもが生き、死んでいくといういのちの営みを通して、この神のいのちにすでに生きていることに気づくよう呼ばれているのです。そして、イエスさまはご自分の生き様と死に様を通して、そのことにわたしたちに見せてくださいました。それをわたしたちはこの聖なる3日間を通してイエスさまの御業を祝い、また日曜毎に感謝の祭儀として祝っていくのです。

 

2020年04月24日