四旬節第5主日 ヨハネ12章20~33節

四旬節第5主日 ヨハネ12章20~33節

今日の箇所は、イエスさまがエルサレムへの入城直後の場面で、ご自分の身に起こることを予想しておられます。過越祭のために、多くの人々が巡礼にやってきますが、その中にユダヤ教親派のギリシャ人たちも礼拝のためにやってきていました。そのギリシャ人が、イエスさまにお目にかかりたいと言ってきたとき、「人の子が栄光を受ける時が来た」と言われます。話の展開としては奇妙な箇所ですが、おそらく、ヨハネ福音書が書かれた紀元90年代には、キリスト教がユダヤ教の枠を超えて、多くの異邦人たちに受け入れられている状況が反映しているのかもしれません。「人の子が栄光を受ける時が来た」と言われる、その「とき」とは、イエスさまのエルサレム入城によって、イエスさまの十字架への歩みが確実になったということを意味しています。つまり、イエスさまの十字架への歩みによって、人類の救いのみ業が確実になるときが来たということでしょう。そして、イエスさまが、受けることになる栄光についての説明が続きます。「一粒の麦は、地に落ちて…死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛するものは、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る…」。イエスさまは、自分の死を意識しておられることが分かります。イエスさまが受ける栄光とは、人類のためにいのちを差し出すこと、それが、イエスさまの栄光ということなのだと言えるでしょう。栄光とは、その人がもっともその人らしくなることだからです。

そして、イエスさまの心の動きが述べられていきます。「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。父よ、御名の栄光を現わしてください」。この箇所は、ヨハネ福音書のゲッセマネであると言われています。イエスさまは、このときのために来たということです。しかし、イエスさまとて人間であり、大きな苦しみのときを前にして、平静ではおられなかったのです。というか、わたしたちと同じように、苦しみ、嘆き、泣き叫ばれ、そこから逃げたいと思われたということなのです。今日の第2朗読で、「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ…御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。そして、完全な者となられたので、御自分に従順であるすべての人々に対して、永遠の救いの源となられたのです」とあります。つまり、イエスさまは、わたしたちと同じようになられたということです。だから、わたしたちの救い主なのだと言われます。また、同じヘブライ書のなかで、「(イエスは)わたしたちの弱さに同情できない方ではなく…あらゆる点において、わたしたちと同様に試練にあわれたのです(4:15)」と述べ、イエスさまが、わたしたちと同じように弱さを身にまとっておられ、痛み、苦しまれたのだといいます。だから、わたしたちのように自分のことに無知で、迷っている人を思いやることが出来るのだといいます。仏教の経典に「譬(たと)えば高原の陸地には蓮華を生ぜず。卑湿(ひしつ)の淤泥(おでい)に乃ちこの華を生ずるがごとし(維摩経)」というのがあります。イエスさまは神さまとして、高いところから人間をあわれみ、救ってやろうとか、頑張っている人は救ってやろうというのではありません。自らが、泥にまみれて、その中から蓮の花が咲くように、わたしたちと、どこまでも泥にまみれて、そして、泥にまみれながら、わたしたちをその地獄の淵から救い出してくださるということだと思います。

イエスさまの十字架は、「ユダヤ人にはつまずき、異邦人には愚かなもの(Ⅰコリ1:23)」かもしれませんが、わたしたちにとっては、「神の力、神の知恵」なのです。誰が、死刑囚になった人に帰依し、その御像を作って拝む人がいるでしょうか。常識ではあり得ないことです。しかし、それをしているのが、わたしたちキリスト者なのです。ローマ帝国にキリスト教が広まり始めたころ、キリスト者を風刺して、十字架に付けられている驢馬の絵が描かれていました。実は、わたしたちが信じていることは、世間から見たら全くの世迷言に他なりません。しかしながら、わたしが苦しむとき、自分にまったく価値がないと思えるとき、自分が誰からも必要とされていないという心の闇に沈むときも、たとえ、その苦しみは代われなくても、側で手を取っていてくれる人がいることが、どれほど、わたしたちの心の安心が癒しになるでしょうか。金子みすゞの詩に、「さびしいとき」というのがあります。「わたしがさびしいときに、他所の人は知らないの。わたしがさびしいときに、お友だちは笑うの。わたしがさびしいときに、お母さんはやさしいの。わたしがさびしいときに、仏さまはさびしいの」。親であれば、我が子が苦しむとき、代わってあげることもが出来ないので、優しくするのが精一杯でしょう。しかし、神仏は、わたしが苦しむとき、ともに苦しんでくださる。わたしが泣くときに、ともに泣いてくださる。これこそが、イエスさまの十字架の栄光に現わされた、神の絶対的慈悲であると言えるでしょう。イエスさまだけが、わたしの苦しみ、痛み、病、死を引き受けてくださることが出来る。それこそが、イエスさまの十字架への歩み、栄光であり、イエスさまにとって、もっともイエスさまらしいことなのでしょう。そのイエスさまがわたしとともにいてくださること、これが福音に他なりません。

2021年03月20日