聖なる過越の三日間の「勧めのことば」

<聖なる過越しの三日間>

聖週間の「聖なる過越しの3日間」は、1年間の典礼暦の頂点です。この「過越しの3日間は、主の晩餐の夕べのミサから始まり、その中心を復活徹夜祭におき、復活の主日の『晩の祈り』で閉じる」と典礼総則に記されています。この説明から分かるように、この「3日間」は、イエスさまの受難、死、復活をゆっくりと時間をかけて、ひとつの流れとして記念し、味わっていくことにあります。多くの人たちがこの「3日間」を、聖木曜日、聖金曜日、聖土曜日であると思っていますが、これは全くの勘違いです。第1日目は、木曜日の日没後に行われる主の晩餐の夕べのミサから始まり、翌日午後3時にイエスの受難と死を記念し、金曜日の日没前で終わります。第2日目は、金曜日の日没から、土曜日の日没までを大安息日として記念し、第3日目は徹夜祭と日中のミサで、イエスさまの復活を祝います。第2日目だけが、一年間の教会暦の中で、唯一ミサが行われない大安息日となります。この日は特に、イエスさまが人類の死という現実とひとつになられたことを記憶します。復活祭のパーティや復活の卵を準備する日ではありません。わたしたちは、聖土曜日の過ごし方をもっと考えるべきなのではないかと思います。幸か不幸かコロナ禍の中で、本質的でない復活祭のパーティや卵の準備に追われることはありませんから、今年は、神であるイエスさまが、人間の死という、人類の歴史が始まって以来、誰もが解決することができない究極的な現実を体験されたのだということを黙想してみたいと思います。勿論、イエスさまの復活によって、生命体としての人類の死が無くなったわけではありませんが、イエスさまが、わたしたち人間の死を体験されたことに意味があるのだと思います。

そして、第3日目についてお話ししておきたいと思います。わたしたちは、イエスさまが復活された主日、つまり毎日曜日のミサの中でイエスさまの受難、死、復活を記念しています。ですから、「聖なる過越しの3日間」は、毎週の日曜日に集約されているということになります。しかし、一年に一度だけ、人類の救いとなったイエスさまの受難と死、そして新しいいのちへと過越していかれた出来事が、ユダヤ教の過越祭の時期に行われたという歴史的事実に基づいて、その日時に合わせて、3日間をかけて記念されるのです。それが、「聖なる過越しの3日間」です。ですから、毎週の日曜日が、小さな過越祭とすれば、復活祭は、大きな過越祭であるといえるでしょう。その意味では、キリスト教国ではない日本において、3日間をかけて「主の過越し」を記念するのは難しいのが現実です。その意味では、木・金・土曜日に行われる儀式に拘るよりも、イエスさまの思いに心を合わせて、日曜日に復活祭を心から祝うことでも充分だとも言えます。

そもそも聖週間の一連の典礼は、キリスト教が公認されたローマ帝国のエルサレムで行われていた、典礼祭儀に由来します。その習慣が、キリスト教国において、広まっていきました。ですから、現代の日本において、それをそのままに再現することはできません。大抵、木曜日、夕方まで働いて、主の晩餐のミサに駆け付け、金曜日は午後3時ではなく、夜に行われる主の受難の祭儀に行くことになります。金曜日の主の受難の祭儀は、伝統的にはイエスさまの死去に合わせて、午後の3時に行います。日本では午後の3時に行っても、誰も来られない人ので、夜に行っているだけです。翌日の復活徹夜祭も、元来は日曜日の午前0時に始まり、朝まで徹夜して、主の復活を祝う祭儀が行われてきました。土曜日は大安息日として、一切、祭儀はなかったのです。この3日間では、様々なシンボル(火、水、ろうそく、香、十字架像、白衣等)が使われますが、それは、五感に訴える方法で、主の過越しを具体的に体験するためのものです。しかし、今年は、コロナ禍で、目に見えるシンボルが省かれますから、簡素になります。しかし、主の過越しの神秘の本質がより見える祭儀になっていると思います。本質を押さえないと、聖週間の典礼は、シンボルの準備に追われる、単なる形式主義に陥りがちです。その意味で、今年は、ゆったりと祈りのうちに、いつもと違う静かな「聖なる過越しの3日間」を過ごしていきたいと思います。

<主の晩餐の夕べのミサ> ヨハネ13章1~15節

ですから、木曜日の主の晩餐の夕べのミサと翌日の金曜日に行われる主の受難の祭儀は、本質的に同じことを記念しているのだということが分かります。木曜日は主の晩餐ということで、食事のかたちで、パンとしてご自分のいのちを人類の救いのために与えられたことを記念します。翌日の主の受難の祭儀では、イエスさまが十字架の上で、実際にご自分のいのちを全人類の救いのためにお与えになったことを記念します。そして、主の晩餐の夕べのミサで読まれるのは、ヨハネ福音書の箇所で、イエスさまが弟子たちの足を洗われる場面が朗読されます。そして、わざわざ、「過越祭の前のことである」と言うことで、ヨハネ福音書に描かれる食事は、過越祭の食事ではなく、前日の弟子たちとの別れの食事であったことが分かります。そうすることで、イエスさまを「真の過越しの生贄の子羊」として描こうという意図があったと思われます。さらに、ヨハネ福音書が書かれた紀元90年代は、当然のように聖餐式が行われていました。しかし、ヨハネ福音書が聖体の制定の箇所の代わりに、洗足の話をもってきているということには、聖体の制定よりも、主の晩餐、聖餐式の内実を問う必要があったのだと思われます。

昨年からのコロナウイルスの感染拡大によって、ミサが休止されることが度々ありました。そのときに様々な声が聞こえてきました。多かったのは、まことしやかにローマ時代のことばを引用し、「わたしたちは主の晩餐なしにして生きることは出来ません」といい、ミサの中止を批判する意見でした。また、教会共同体の中での様々な意見の相違などもありました。ヨハネの時代にも同じような問題があったようです。すでに、パウロは、派閥争い、勢力争いが絶えなかったコリントの教会に宛てて、「あなたがたの間で仲間割れがあると聞いています…それでは、一緒に集まっても、主の晩餐を食べることにはならないのです(ⅰコリ11:18~20)」と書いています。また、古代のある教父は、「主の晩餐に与っていながら、貧しい人のことを考えないなら、主の晩餐に与ったことになりません」ということばを残しています。さらに、パウロは激しい口調で「…あなたがたは、自分に対する裁きを飲み食いしているのです(11:29)」、と言って共同体のあり方を批判しています。イエスさまが聖体の秘跡を制定されたのは、イエスさまの心を残すためであって、ミサという儀式や典礼の形式を残すためでも、聖体拝領のためでもありません。ヨハネ福音書が、聖体の制定についての記述を省いたのは、聖餐を軽視していたのではなく、聖餐を聖餐たらしめるもの、つまり聖餐式の内実について、注目する必要があったからだと言えるでしょう。つまり、キリストの体とは、いわゆる「ご聖体」のことを言うのではなく、キリストの心を生きるキリスト者共同体自体、つまり教会の生き方であることを思い起こさせるためだということです。

イエスさまは全世界の人々を、ひとりとして漏らすことなく救い、十字架に付けられる側の人も、十字架に付ける側の人も、共に救われていく世界を願い、神の国を始められました。しかし、わたしたちの現実はどうでしょうか。わたしは絶対、誰かを十字架に付ける側にはなりません、という信念をもって生きています。だから、十字架に付ける側の罪人は、当然罰せられなければならないと思っています。日本は主要先進国のG7の国だと言いながら、今をもって死刑制度さえ廃止することすら出来ません。G7の中で未だに死刑制度を続けているのは、日本とアメリカの一部の州です。死刑制度だけではなく、常に被害者側の立場に立ってものを言う日本人の姿に、闇の深さが現れているように思います。人間は状況が変われば、十字架に付ける側にも、付けられる側にもなる、殺す側にも、殺される側にもなるということに気づこうとさえしません。その意識が教会の中にもありません。常に、教会は、わたしは絶対正義であるかのように振舞っています。

イエスさまがわたしたちに残したものは、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合うこと(ヨハネ13:34)」、イエスさまが新しい掟として残した、相互愛に尽きると言ったらいいでしょう。イエスさまが愛すると言われるとき、敵味方、加害者被害者、善人悪人、聖人罪人の区別や差別はありません。いろいろ困難な状況の中であっても、お互いに足を洗い合い、ゆるし合い、仕え合うこと、それが相互愛であり、イエスさま自身が、その身をもって模範を残してくださいました。それなのに、今、わたしたちが、しがみついているミサ、聖体拝領とは何なんでしょうか。中身のないミサであれば、どんなに荘厳で美しい典礼を何回行っても、何回聖体拝領しても、わたしたちは何も変わらないのです。こうした現実は、結局は多くの場合、聖体の秘跡を制定されたイエスさまを知ろうとしないことからくる無知、規則や典礼祭儀に縛られていること、個人または集団のエゴイズムを優先させていることが原因です。

今日は、わたしたちは、人類のために、このわたしのためにいのちをかけてご自分を与え尽くされたことを、イエスさまのミサの制定として記念します。「あなたがたは、ミサで記念しているものとなりなさい」という、呼びかけを今一度、心に留めたいと思います。

<主の受難> ヨハネ18章1~19,42節

今日は、昨日の主の晩餐の夕べのミサで記念されたことを、イエスさまが実際に自分の身をもって生きられたことを記念します。つまり、イエスさまが晩餐の夕べのミサの中で、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさいと(ヨハネ13:34)」と言って、相互愛の新しい掟をお与えになるにあたって、イエスさまがどのようにわたしたちを愛されたかを見るわけです。その愛し方は、敵味方、加害者被害者、善人悪人、聖人罪人の区別なく、すべての人々のために、ご自分の体を裂いて、血を流して、自分のいのちを与え尽くすことでした。多くのことを説明する必要はないと思います。イエスさまが、「わたしがあなたがたを愛したように」と言われるその愛し方が、十字架であるということです。

それでは、わたしたちが、実際に新し相互愛の掟を実践できるのかと言えば、「はい、出来ます」とは誰も言えないでしょう。「出来ます」と言える人がいるとしたら、その人は嘘つきです。なぜなら、人間は誰もイエスさまの愛を完全に理解し、実践することは不可能だからです。結局は、自分が可愛い、自分の幸福や利益を求め、自分の世界から一歩も出られないわたしというのが現実だからです。しかし、ただ「わたしたちが愛を知ったのは、あの方がわたしたちのために自分のいのちを捨ててくださった(ⅰヨハネ3:16)」からですと、ヨハネが手紙の中で書いているように、イエスさまの十字架によって、人の知恵をはるかに超えた、イエスさまの「愛の広さ、長さ、高さ、深さ(エフェソ3:18)」が、垣間見られるような気がします。

仏教では、人間の愛はどこまでいっても小悲であると言います。人知を超えた方だけが、真の大悲、大慈悲と言われる愛をもっておられ、死ぬことの真の意味を知っておられると言えるでしょう。わたしたちは、そのイエスさまの愛に触れることによってのみ、「わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じています(ⅰヨハネ4:16)」と言われる、真実の信仰がわたしたちの内に、イエスさまの側から呼び覚まされてくるのではないでしょうか。実は、わたしたちはイエスさまについて何も知らないのです。わたしたちの信仰は、自分の身勝手な思い込みでしかなかったことが、イエスさまの十字架も見つめるときに、明らかにされるのではないでしょうか。信仰はわたしの信仰ではなく、イエスさまの願い、愛がわたしのなかでひきおこした信仰であり、わたしが愛するとしたら、それはわたしではなく、わたしの内でイエスさまが愛してくださるのです。

<復活の聖なる徹夜祭> マルコ16章1~17節

今年の復活祭では、マルコ福音書が読まれます。マルコ福音書は、今日読まれる16章8節で終わっています。結びの部分は後代の加筆、補遺であると言われています。8節は次のような言葉となっています。「婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、誰にも何も言わなかった。恐ろしかったからである」。ですから、最初に書かれは福音書であるマルコは、空の墓の物語で終わっているわけです。つまり、マルコ福音書には、イエスさまと弟子たちの再会については何も書いていないことになります。しかし、天使は、婦人方に「あの方は、あなたがたより先にガリラヤに行かれる…そこでお目にかかれる」と告げ、ガリラヤでイエスさまと出会えると告げます。実際、弟子たちが、ガリラヤでイエスさまと再会したことまでは述べません。ただ、天使は、ガリラヤであの方と出会えると言ったのです。そのガリラヤとは何でしょうか。それは、弟子たちが、イエスさまから呼びかけられ、イエスさまと出会い、イエスさまとともに生きたガリラヤ、そしてエルサレムへ向かうことを決意されたガリラヤです。そのガリラヤの日々の生活の中で、イエスさまと出会えると天使は言ったのです。別の言い方をすれば、あなたがたの今の日常の生活の中で、あなたのガリラヤでイエスさまと出会える、そこにイエスさまがおられるということではないでしょうか。わたしたちの人生に、イエスさまがおられる、イエスさまの光に包まれているということだと思います。

そもそも、人類の歴史が始まって以来、人間の生老病死は、人間にとって最大の謎でした。どれだけ科学や医学が進歩したとしても、人間の生老病死という現実を変えることも、コントールすることも出来ません。ある程度、長くしたり、やわらげたりすることは出来るでしょう。しかし、人間の力ではどうすることも出来ない現実です。仏典の中に、「人、愛欲の中にありて、独り生まれ、独り死し、独り去り、独り来る。身みずから之れを当(う)くるに、代わる者あることなし」と述べ、人は生まれてくるのも独り、死ぬときも独りであり、そのわが身が引き受けていくしかない、その現実を誰も代わることは出来ない、と述べています。実際、イエスさまが十字架の上で人類の罪を引き受け、死なれ、復活された日も、同じように日が昇り、人々の苦しみが取り去られるということはありませんでした。また、老病死という現実が無くなったということもありません。イエスさまの復活は、この人間の現実である生老病死をなくすることではありません。そうではなく、人間が生まれ、老い、病み、死んでいくことが、人間として生きることそのものであるということをイエスさま自身が人間として生き切ることで、わたしたちに現実を見せてくださったのではないでしょうか。復活のいのち、永遠のいのちというものは、わたしたちが、もはや老いることも、病むことも、死ななくなるということでもありません。人間は生まれ、老い、病んで、死んでいく、そのことそのものが人生であり、人間の現実である。その現実の中に、神のいのちが宿っている。生をもはや、苦として、謎として囚われるのではなく、その現実を引き受け、生きていくことが出来るようになること、それが復活されたイエスさまと出会うということであり、わたしたちがすでに永遠のいのちの中にあるということを知らせていただくということではないでしょうか。

イエスさまが、「空の鳥を見なさい。野の花をみなさい」と言われるとき、自分の生老病死で悩み、そのことに囚われている人間たちに、いのちであることを生き切っていくことを大自然に学びなさいといわれたのではないでしょうか。天国行きを目標にして、びくびくし、犠牲をし、掟を守ってちまちまと生きるのではなく、空の鳥のように、野の花のように、生き生きとのびやかにいのちを生きなさい。与えられているいのちを生き切りなさいと言われているように思います。生きとし生けるものは、大きな神のいのちの計らいの内にあり、そのいのちを生きているのだ。それなのに、どうしてあなたがたは、そのいのちを自分のいのちであるかのように握りしめ、苦悩するのか。いのちを自分のものとして握りしめること、これこそが人間の苦しみ、罪の根底にある我執であり、そこからありとあらゆる欲と怒り、無知が出てくるのです。イエスさまは人間として、人生を生き切ることで、この人間の我執を、ご自分の愛をもって断ち切ってくださり、わたしたちにもっと広い世界、大きないいのちの世界を垣間見させてくださいました。ある人の「生のみが我らにあらず。死もまた我らなり」ということばを思い出します。生も死をなくなるということでなく、死と生を対峙させたる二元論的な人間の分別を越えた、大いなるいのちに、すでにわたしたちは包まれてあることに目ざめさせてくださること、それが復活されたイエスさまに出会うということであり、わたしたちはすでに復活のいのちに飲み込まれていることに気づくということではないでしょうか。

この地球にいのちが誕生して、38億年と言われます。その長い長い、気の遠くなるようないのちの歴史の中で、生きとし生けるものはそのいのちをつないできました。この脈々と続くいのちの営みを、このいのちを生み出した光を、永遠のいのちとか永遠の光というのでしょう。そして、このいのちの歴史の中で、人間だけが、自分が大いなるいのちで生かされていることを認識することが出来るのです。コロナウイルスの感染の広まりの中であってさえ、わたしたちは永遠のいのち、永遠の光に包まれてあることを、今一度、気づかせていただきたいと思います。

2021年04月02日