復活節第3主日 ルカ24章13~35節

「復活節第3主日 ルカ24章13~35節」

今日の福音はエマオへと向かう弟子たちと復活されたイエスとの出会いの物語です。これも週の初めの日ですから日曜日の出来事であったことが分かります。弟子たちはエマオという村へ向かって旅をしています。そこでイエスさまに起こった一連の出来事を話し合っています。そこへ復活されたイエスさまご自身が近づいてきて、一緒に歩き始められました。でも、弟子たちの目は遮られていて、それがイエスさまだとは気づきません。では、この弟子たちはどのようにして、イエスさまがともに歩いておられるとい真実に気づいていったのでしょうか。気づく、これが真の信仰を得るということですが、今日は、そのことを見てみましょう。

まず、弟子たちはイエスさまの身に起こった出来事について話し合っています。分かち合っていたとも言えるでしょう。その内容はイエスさまの身に起こったことで、今わたしたちが信仰告白していることそのものです。しかし、彼らはそのことを信じていません。問題は別の言い方をすれば、どのように真の信仰を得ることができるかということでしょう。それで、イエスさまは聖書を読んで、それを解き明かされます。そしてまた分かち合いを続けます。この一連の流れこそが、イエスさまがわたしたちとともにおられることに気づかされるプロセスだと言えるでしょう。聖書を読む。そして聖書の解き明かしを聞く。それから聞いたことを分かち合うという3つの要素があることが分かります。そして、泊まるために家に入って、食事の席でイエスさまがパンを裂いたときに、2人の目が開けたと書いてあります。しかし、彼らは「道で話しておられたとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていた」と言います。つまり、実はすでにイエスさまがともにおられたことに思いが至るわけです。そして、そのことにある時に気づくということだと思います。

わたしたちは今、コロナウイルスの感染拡大でミサのために集まることは出来ません。しかし、聖書のみことばを聞き、その解き明かしを勧めのことば(説教)として聞き、それをお互いに分かち合う、この3つの要素が整えば、わたしたちの心は燃やされるのです。復活したイエスさまが、今その場におられることを体験できます。わたしたちは、どうしても一人で聖書を読むと自分本位の読み方になりがちです。だからみ言葉の解き明かしが必要になるのでしょう。でもその解き明かしを聞いたとしても、それでもわたしたちは自分たちの得手に聞くことから自由ではありません。しかし、分かち合うことによって初めて、自分本位の聞き方をしていること気づかされるのです。分かち合いは自分の独断や偏見を主張し合う場ではありません。自分が聞いたことを人と分かち合うことによって、自己本位な聞き方をしていることがないかどうかお互いに確かめあう場であるといえるでしょう。自分で聖書を読んで、解き明かしを聞き、知識として解説書を読むことだけでは自分本位のあり方にとどまってしまい、いつまでたっても真の信仰に至らないということなのです。読んで、聞いて、分かち合って、そのことを繰り返していく。イエスさまがおられることを体験し、そして真の信仰を得、教会が信仰共同体となっていく。そこには、教皇、司教、司祭、信徒の区別もありません。皆が、平座して分かち合い、それぞれが真の信仰に至るために取り組まなければならないのです。一人で読んで、頭で理解して満足しているだけなら、その信仰は誰であっても歪んだものになっていきます。日本の迫害の歴史の中で、宣教師がいなくなって、ミサがなくなっても信仰を保つことができたのは信仰の仲間がいた人たちでした。一人で信仰を守っていた人たちは、やがてその信仰は変質したものになっていきました。

この信仰の仲間、信仰共同体こそが教会であり、人類一致のしるし、神との出会いの場、根本秘跡なのです(第2バチカン公会議、教会憲章)。今までのカトリック教会は根本秘跡である教会がおこなう7つの諸秘跡に拘り過ぎたのかもしれません。もちろん聖体を頂けることは恵みです。しかし、頂けないこともまた恵みです。だから、今この時にこそ、わたしたちは聖書を読み、その解き明かしを聞き、それを分かち合う信仰共同体になっていけるかどうかが問われてくるのです。現代はいろいろな方法があります。実際的に集まることができなくても電話やメール、ラインなどで分かち合うことは充分可能です。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいる(マタイ18:20)」と言われたこと、これが教会、信仰共同体です。わたしたちが真の信仰共同体になれるかどうか、そこにイエスがともにおられることに気づくことができるかどうかが問われています。

あるときお寺の掲示板に次のような言葉が書かれていました。「本当のいちばん深い闇は、分かっているという思いです」。なるほど、一番深い闇はコロナでも、病気でも、死でもなく、自分こそは分かっているという思いなのです。この困難な時は、わたしたちに染み付いた今までの思い込みや既成概念から解放され、真の教会共同体になるチャンスなのかもしれません。そのことを今日は味わってみましょう。

2020年04月25日