復活節第2主日 ヨハネ20章19~31節

復活節第2主日 ヨハネ20章19~31節

今日の箇所は、日曜日の夕方の出来事が描かれます。弟子たちに復活されたイエスさまが現れます。その現場に、弟子のひとりのトマスはいませんでした。それで、他の弟子たちはいろいろ説明しますが、トマスは、他の弟子たちの話を信じようとしません。それは、そう簡単に信じられることではないでしょう。1週間が経った次の日曜日に、再びイエスさまが現れ、トマスにご自分の手とわき腹を示して、「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と諭されます。さらに、「わたしを見たから信じたのか。見ないで信じる人は、幸いである」と仰せになりました。今日、洗礼式が行われますが、皆さんも自分の洗礼のときのことを思い出してみてください。幼児洗礼の人も含めて、ここに誰か、イエスさまを見て信じた人がいるでしょうか。わたしたちは、皆、イエスさまを見ないで信じたのです。現代人は、何事も見なければ、実証されなければ信じようとしません。では、わたしたちはどのように信じるようになったのでしょうか。

わたしたちは、信じるというとき、「わたしが信じます」というように、自分を主語にして考えます。ギリシャ、ローマ、そしてヨーロッパの自己主張の強い個人主義的な宗教・文化の世界では、“わたしが”信じることが、当たり前のことでした。日本の教会には、ヨーロッパ経由でキリスト教が入って来ましたので、わたしたちキリスト者も、大なり小なり、そのような教育を受けてきました。そこで、自分が選んで信じたのだというふうに思ってきました。幼児洗礼であれば、そのような環境にあったから、自分が信じているのは当然のことのように思って来たでしょう。そして、自分は信仰があるとか、あの人は信仰がないとか浅いとかいう言い方を平気でしてしまいます。しかし、果たして信仰は、わたしが何かをした結果でしょうか。わたしが、頑張って勉強して、また教会の規則を守って、努力した結果でしょうか。日曜日毎に、ニケア・コンスタンチノープル信条では、わざわざ「わたしは信じます。唯一の神、全能の父…」と言って信仰宣言をしますから、ますます、“わたしが”信じているのだという気になっていきます。しかし、教会は、今まで一度も人間の力によって、つまり自力で信じて救われるのだとは言ったことはありません。すべては、恵みが先行すると繰り返して教えてきました。しかし、どうしてこんな風になってしまったのでしょうか。しかも、今の教会は、自力主義が蔓延しています。

2018年に出版された聖書協会共同訳では、原文に忠実な、かなり本質的な訳の変更が行われました。今までは、ロマ書やガラテア書での中で、「人は行いによってではなく、イエス・キリストへの信仰によって義とされる」、つまり、「救われるのは、わたしがイエス・キリストを信じることによってです」と、わたしを主語にして、訳されてきました。しかし、今回の訳では、原文通り、「人が義とされるのは、行いによるのではなく、イエス・キリストの真実(信仰)によるのです」と訳されました。つまり、「イエスさまの真実、約束、願いが、わたしを救うのです」と、イエスさまを主語にして訳し直されました。原文はそうなっていたのにも関わらず、「わたしが信じることで救われる」と、ずっと訳し続けてきたのです。そして、教会制度に人々を縛り付け、恐れの信仰教育をしてきたのです。信じないと救われないぞ、洗礼を受けないと救われないぞ、罪を犯すと救われないぞと言い続けてきたのです。この新しい聖書協会共同訳は、今のところ典礼の場で使われることはないようです。しかし、わたしたちを救うのはイエスさまであって、わたしたちではないことぐらい、良識のあるキリスト者であれば誰でも分かっているはずです。そして、イエスさまが、信仰がある人は救うが、信仰がない人は救わないような、そんなみみっちい神さまでないことぐらい、日曜学校の子どもたちでも知っています。コロナが広がって、主日のミサを免除しますという言い方が、繰り返して言われましたが、ミサは義務なのでしょうか。わたしたちが行かなければ、イエスさまはわたしを罰するとでもいうのでしょうか。ミサは「感謝の祭儀」ではなかったのでしょうか。

わたしたちは、今年も「聖なる過越しの三日間」を過ごしてきました。イエスさまは自分を十字架に付ける人も、十字架に付けられる人も、ひとしく平等に救いたいと願って、十字架に掛かられたのではないでしょうか。自分を十字架に付けるようなことをする奴は救わんぞ、と言われる方でしょうか。

しかし、そういう現実のわたしたちは、状況が変われば、十字架に付ける側にも、十字架に付けられる側にも、殺す側にも、殺される側にもなってしまう、そういう危うい存在です。教会の歴史は、何度も、教会が人々を十字架に付ける側になってしまったことがあることを物語っています。わたしたち人間は、キリスト者であろうと、そのようなものでしかないのです。しかし、ただひとつ希望があるとしたら、わたしたちはそのような自分勝手で、不安定なものであるのにも関わらず、イエスさまは、わたしのためにいのちをかけてくださった、イエスさまを裏切り、イエスさまを十字架に付けるようなわたしのために、いのちをかけてくださったということに気づいている、あるいは気づこうとしているということです。もしも、その気づきがないなら重症です。しかも、かなり思い病、まさに死に至る病です。しかし、そのような重病人であったとしても、そのわたしのために、イエスさまは十字架に付けられて、死に、わたしたち全人類をひとりとして漏らすことなく救いたいという願いを立てて、イエスさまは復活し、今、その願いがわたしたちに届いているのです。だから、そのイエスさまの真実、願いが、わたしたちの心の内にイエスさまへの信仰を呼び起こしているのです。信仰は、わたしの努力でも、自力でも、わたしの手柄でもありません。そのことを、見なければ信じなかったトマスは、嫌というほど体験したことでしょう。

ですから、ミサは感謝の祭儀でしかないのです。このイエスさまの約束、願いの前に、わたしたちは感謝以外に何かすることがあるでしょうか。わたしたちの如何なる善行や信心深い行い、犠牲であっても、私心にまみれ、手垢にまみれ薄汚れたものでしかないのです。すべてをなさるのは、イエスさまです。わたしがイエスさまを信じているとしたら、そのような願いでわたしに働きかけ、わたしに信仰を引き起こしてくださっているイエスさまです。わたしが何か善い行いが出来るとしたら、それはわたしではなく、わたしの中におられるイエスさまです。自分で、何かよいことをしていると間違っても思ってはなりません。そして、何も、わたしたちが真実のイエスさまの愛に触れるのを邪魔するもの、妨げになるものもないのです。わたしたちの罪であってさえも、わたしをゆるすという喜びをイエスさまに与えすることが出来るからです。ですから、わたしたちからイエスさまを遠ざけるものは何もないのです。そのイエスさまを知るために、またその喜びを皆に告げ知らせるためにこそ、わたしたちは洗礼を受けたのです。

2021年04月08日