復活節第3主日 ルカ24章35~48節

復活節第3主日 ルカ24章35~48節

今日のみことばは、エマオで、「パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した」という書き出しで始まります。そう話している弟子たちの真ん中に、イエスご自身が立たれたと続きます。ここに、教会共同体が、何であるかということが表現されているといえるでしょう。パンを裂いているとき、つまり、感謝の祭儀を祝っているときに、そして、弟子たちが集まっている集いの真ん中にイエスがおられる、これが教会共同体であるということなのです。しかし、この共同体は、まだイエスさまが自分たちの集いの中におられることが、よく分かっていない共同体です。それでは、イエスさまを中心にした共同体とは一体どういうことでしょうか。

わたしが育った家は浄土真宗では、寺院は、僧侶いわゆる聖職者や教団ものではなく、檀家のものだという考え方でしたた。だから、お寺の屋根を葺き替えるということになれば、信徒がお金を出し合って、工事をすることは普通のことでした。お寺の中でも、評議会のような集まりがありましたが、僧侶はあくまでもお寺の留守役で、話し合うときも信徒と平等でした。だから、今のカトリックのような、小教区の土地・建物は、教区の所有だとか、聖職者が最終決定権をもっているというようなことはありませんでした。それで、わたしがカトリックに改宗して驚いたのは、先ずもってカトリック教会の位階制度です。聖書を読む限り、これが、イエスさまの教えであるとはとても思えませんでした。わたしたちは、お寺の日曜学校では、皆は一切平等で、仏の子らであると教えられて育ちました。だから、神学校に行って、カトリック教会の位階制度やオルドと言われる入学年度や叙階年度による序列などには、大変な違和感を覚えました。これがイエスさまの教えなのか、そしてこれが教役者になる人たちの集まりなのか、それがキリスト教として堂々とまかり通っていることが不思議でなりませんでした。確かに、真宗でも、本山の門首などを生き仏のように崇める人たちもいましたが、親鸞の根本的な教えは、皆、等しく平等であるということでした。それは、親鸞の「親鸞は弟子一人もたずそうろう(歎異抄)」と言って、老若男女、僧俗の区別なく、皆ともに同じ信仰を頂いて、ともにみ教えを聞いていく同朋同行であるという教えが根付いていたからでしょう。

教会は、イエスさまを中心にした、信仰共同体です。同じ信仰を頂いたという意味において、教皇、司教、司祭、信徒の区別は本来的なものではありません。勿論、組織として、制度上の役割の違いはあるでしょう。しかし、わたしたちは皆、イエスさまを中心として、イエスさまのみことばを一緒になって聞いていく同朋なのではないのでしょうか。パウロも、「もはや、ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいてひとつだからです(ガラ3:28)」と書いています。それなのに、今もって典礼の中でなされている、あの荘厳な所作は何でしょうか。イエスさまは、「わたしがあなたがたの足を洗ったように、あなたがたも互いに足を洗い合いなさい(ヨハネ13:14)」と言って、お互いに奉仕し合うようにと言われました。これが、イエスさまが、ご自分のいのちをかけてなされた救いのみ業を記念する、感謝の祭儀です。侍者を従え、きらびやかな祭服を着ているわたしたち聖職者を見て、イエスさまはどう思っておられるでしょう。教会の祭服は、元々奉仕者であることが皆に分かるように、使い始められたものです。レストランで、ウェイターやウエイトレスがユニホームを着ているような感覚だと考えればよいでしょう。

今日、イエスさまがわたしたちの心の目を開いてくださるように祈りたいと思います。イエスさまは、「苦しみを受けて、三日目に死者の中から復活する。また罪のゆるしを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人に宣べ伝えられる。エルサレムから初めて、あなたがたはこれらのことの証人となる」と言われました。今の教会は、人々に対して、果たしてイエスさまの証人になることが出来るでしょうか。僧俗の別なく、同じようにひざを突き合わせて、平座し、「ああ、そうであったのか」と言って、イエスさまのことばに一緒に耳を傾けようとしている共同体でしょうか。聖職者は教え、信徒はその教えを従順に聞き従う、組織や教団が大きくなると、どうしても教化者意識が強くなりがちです。釈迦が、今でもインドで大きな拘束力を持つカースト制を相対化し、生まれや身分、役柄で人の尊さが決まるのではなく、ともにみ教えを聞くことによる新しい人と人との関りを作っていったことはよく知られています。イエスさまは、「悪人も善人にも太陽を昇らせ…雨を降らせてくださる(マタイ5:45)」と言われました。みことばをともに聞いていくということにおいて、わたしたちの間に如何なる上下、差別も区別もありません。それが、イエスさまを中心にした共同体でしょう。イエスさまは、「あなたがたは先生と呼ばれてはならない。あなたがたの師はひとり(キリスト)だけで、あとは皆兄弟なのだ(マタイ23:8)」と言われました。そのことを、改めて心に留めたいと思います。

もし、わたしたち司祭が、説教をするとしたら、それはいわゆる“説教”ではなく、みことばの分かち合いだということです。説教ということば、元々、ホミリアで、「交わり」、「語り合い」という意味であることに注目する必要があると思います。説教は、みことばの分かち合い、解き明かしであり、それを聞いて、皆が分かち合ったり、深めたりしていくための誘い水のような役割です。昔の公教要理のように、信徒に教会の教えを教え込ませるものではないのです。そして、パンを裂くときにイエスさまだと分かったと言われる感謝の祭儀を行うなら、それこそ、同じパンを皆で分かち合うことが見た目で分からなければなりません。だから、ミサの司式や司会をし、パンを配る人には、奉仕に徹することが求められます。それは、朗読奉仕であれ、聖歌奉仕であれ、他の如何なる奉仕でも同じです。何か役割を果たすことが、偉いものであるように錯覚することがないようにしなければなりません。感謝の祭儀を行うということは、イエスさまがそこまでして、わたしたちのためにいのちを与え尽くされたことを、お互いに奉仕し合うことで、イエスさまへの感謝、イエスさまの生き様を表現することなのです。感謝の祭儀を通して、人々がイエスさまの現存を感じ、イエスさまとの出会いを感じられるものでなければならないでしょう。ミサの中で、自分が前に出てしまい、お互いに奉仕し合うことを忘れた司祭や信徒は、もはやミサを祝っているとは言えません。今日、わたしたちの心の目を開いていただき、わたしたちひとり一人に、また教会のあり方について、わたしたちの中に思い違い、勘違いがないかを確かめあっていきたいと思います。

2021年04月16日