復活節第4主日 ヨハネ10章11~18節

復活節第4主日 ヨハネ10章11~18節

今日は羊飼いのたとえが話されます。イエスさまとわたしたち人類との関りを、当時の人々にとって分かりやすい羊飼いと羊の関係で説明された箇所です。イエスさまはいろいろなたとえで、神さまの人間への関わり方を説明しようとされました。それが、共観福音書(マタイ・マルコ・ルカ)にみられる神の国についてのたとえです。そもそも、人間の頭(理性)でもって、神さま、イエスさまのすべてを把握することは出来ないのので、たとえで話されたのだということなのです。もし、はっきりと定義できるなら、「神の国は○○である」という言い方になるでしょう。しかし、90年代に書かれたヨハネ福音書になると、「わたし(イエス)は○○である」という言い方が出来てきます。例えば、「わたしは道、真理、いのち、ぶどうの木、世の光」などです。いずれも、断定的には言われていますが、これらも、たとえに変わりはありません。神さまについて、人間の考えたことばで説明しようとする限り、言い尽くすことは出来ないのです。

神さま、イエスさまについて、人間が知る、理解するということは、大海の水を、小さいコップに納めようとするようなもので、過去の神学の試みは、大海の水を、何とか小さいコップに入れて、それを分析することで、大海の水が何であるかを説明しようとしてきました。それ自体に、限界があるのにもかかわらず、小さいコップの水を解析して、理詰めで大海が何であるかを説明しようとしてきました。大海の水の成分を解析したもの、これが、いわゆる公教要理、カテキズムと言われたものになっていきました。第2バチカン公会議前に洗礼を受けた方々は、聖書はほとんど読まず、公教要理だけを教わって信者になられたと思います。そこに書かれていたことは、ほとんどが倫理社会の教科書のようなものだったと思います。公会議後、神学的にも進歩があり、コップの中の水を分析するのではなく、大海自体に飛び込んでそこから内省を深めていくというような、新しい方向性が出てきました。また、皆が自国語で聖書を読めるようになりました。さらに、現代の聖書学の発展によって、文字通り聖書を読むのではなく、その時代背景や編集の歴史など調べていくことで、イエスさまが話されたことの実体に迫れるようになってきました。しかし、今尚、一部の人々は、コップの水を分析したような、古色然とした教えにしがみついているというのも事実です。そのような説明はある意味で、分かりやすいのです。なぜなら、それらは、あくまでも人間レベルの説明だから、かえって人間には分かり易くて、はっきりしています。だから、欧米では結構、若者が保守的な教えやグループに惹かれる傾向が見られます。でも、それでは、イエスさまと出会うということにはなりません。

さて、羊飼いのたとえ話に戻りましょう。イエスさまは、「わたしはよい羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている」と言われました。“知る”という意味においては、羊飼いも羊も同じです。それが、わたしたちが、人間でもあるのにも関わらす、イエスさまを知ることが出来る同じ土俵に立っているということなのです。そのことが可能になったのは、神であるイエスさまが人間となられたからなのです。つまり、わたしたち人間と同じものになられたことで、わたしたち人類にも、神さまのことを知る可能性が開かれたということです。深い深い淵に、橋が掛ったようなイメージでしょうか。これが、イエスさまがわたしのことを知るように、わたしもイエスさまのことを知ることが出来るということです。

しかし、わたしたち羊が、羊飼いのことを知るのと、羊飼いが、羊を知っているのとは同じではありません。知るという意味においては同意であっても、度量は同じではありません。度量という言い方は不適当かもしれません。むしろ、その奥行きがまったく違うという方が日本語的には正確かもしれません。それがよく分かるのは、「わたしは羊のためにいのちを捨てる」という言葉です。羊飼いは自分の意志で、羊のためにいのちをかけますが、羊は羊飼いのためにいのちをかけることはありません。そこら辺が、決定的な違いであり、それが、羊飼いの羊への知り方にもなるわけです。ですから、羊飼いが羊を知っているのと、羊が羊飼いを知っているのと同じではないことが分かります。羊飼いの羊への知り方=愛し方と言えばいいでしょう。わたしたちはどこまでいっても、羊飼いが羊を愛したように、羊飼いを愛し、また他の羊を愛することは出来ないのです。わたしたちは、羊、それぞれ勝手なことをする羊です。でも、イエスさまは、その羊のために羊飼いは、いのちをかけるのだと言われます。

また、イエスさまは、「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる」と言われますが、この囲いは教会という狭い枠ではありません。イエスさまにとって囲いは、“ない囲い”です。光がすべてのものを遍く照らすように、イエスさまの囲いというのは、救われる救われないという枠ではなく、救われる救われないという囲いがない世界を指しています。柳宗悦の歌に、「吉野山 転びてもなお 花の中」というのがあります。わたしたちは何度、転ぼうとも、傷つこうとも、迷い出たとしても、イエスさまの中にあるということでしょう。罪人でしかないわたしにとっては、そこにしか救いはないし、どこで転んでも何をしようとも、イエスさまのみ腕の中であるということなのでしょう。そして、転ぶ度に、迷う度に、そのことを実感させられるのです。

今日の第2朗読で、「神がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、その通りです…愛する者たち、わたしたちは、今すでに神の子です…」と言われます。子であれば、何であっても何でなくても、子であることに変わりはありません。昔の言い方で、イエスさまは実子で、わたしたちは養子であるという言い方がされてきましたが、これは適当な言い方ではありません。むしろ、神学的には「子における子等」と言うのですが、子(イエスさま)、子‘(わたし)、子"(わたしたち)…と言ったらいいかもしれません。わたしたちは、どこまでいっても子ですから、決して見捨てられることがないのです。ですから、羊は、ひとりの羊飼いに導かれ、ひとつの群れになると言われるのでしょう。動物である羊であればそこまででしょうが、わたしたち人間は、わたしたちのためにいのちを捨ててくださったイエスさまの愛を知ることが出来ます。それが、羊は羊飼いを知るということに他なりません。そして、イエスさまの愛を知った人類だけが、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」というイエスさまのことばを受け止められるようになっていくのでしょう。そこには、それが出来るとか出来ないとかではなくて、徹底した罪人としての自覚と、どんな罪人も引き受けて、決して見捨てることがない摂取不捨のイエスさまの愛が見えてきます。わたしたちが、その愛に触れさせていただくことで、決して今まで見ることが出来なかった恵みの世界、「吉野山 転びてもなお 花の中」の世界が見えてきます。

2021年04月24日