年間第 17 主日 ルカ 11 章 1~13 節
北村師
今日は、 祈り についての教えの要約ともいえる箇所です。 今まで、 いずれも問題とされてきたことは、神への愛と隣人愛、隣人と敵、祈りと活動という ように、 人間が物事を二元論的に捉えてしまう こと です。 ここで取り上げられる祈りは、 生活や活動と 遊離した祈りではなく、生活の中から湧き上がってくる願い、叫びのようなものとして見る ことができます。 そこから祈りの本質について考えていきたいと思います。
ルカ福音書は、 しばしば祈っているイエスさまの姿をわたしたちに伝えてきます。 今日の箇所は、洗礼者ヨハネが自分の弟子たちに祈りを教えていたように、自分たちにも祈りを教えてほしいという 弟子たちの願いから始まります。 そこで、イエスさまは弟子たちに主の祈りをお与えになります。しかし、 ここでイエスさまが教えたのは、 いわゆる文句として主の祈りではありません。 わたしたちは祈りというと、言葉が決まった祈りやミサ、 ロザリオに代表される 信心業を思い浮かべます。しかし、そもそも祈りというものは何でしょうか。 アウグスティヌスは「主よ、あなたはわたしたちをご自身に向けて創られました。ですから、 わたしたちたちはあなたのうちに憩うまで安らぎを得ることはできないのです」と いっています。つまり、 人間は、 すべての生きとし生けるものは、神へ向かう存在として造られているということです。 わたしたちの魂のうちに、 いのちの根源へと 還ろうとする動きが刻印されていると いってもいいと思います。このいのちの根源へと向かう動き、それが祈りについて考えるときの前提になります。
弟子たちは、 イエスさまがたびたび祈っておられる姿を見て、イエスさまのうちに体現されている このいのちの本源へと向かう動き 、 方向性のようなものを弟子たちは感じたのではないでしょうか。イエスさまの全存在そのものが祈りとなっているというか、 いのちの叫び、動き となっていたという ことではないかと思います。 ですから 、弟子たちは、わたしたちにも 祈ること を教えてほしいと願ったのはないでしょうか。 すべての生きとし生けるものうちに、その根底に神へと 向かう動き 、渇き があるのです。しかし、すべてのものがそのこと を意識している わけではありません。 むしろ、 その動き、渇きに対して無自覚、無関心である のが普通かもしれません。 しかし、人間の心の深みにはいのちへの渇きがあり、たえず神へと 向かおうとしていいます。その渇きは、 人間のさまざまな形を変えた欲望や願望となって、人間の中に蠢いています。 満たされたい、愛されたい、大切にされたい、 ひとつになりたい、 自分のものにしたいといった人間の願望です。 こうしたわたしたちの自分勝手な欲望は、 どこまでいっても 満たされることはありません。 しかし、こ の癒されることのない渇きは、わたしたちの中にある 根源的な神への渇き を指し示している のではないでしょうか。 どれほど雲が太陽を覆い尽くそうとも 太陽は存在し続けており 、 雲に覆い隠されてその真実の姿はわからないとしても 、 いのちあるものは光の方へ、光の方へと向かっていこうとします。その動き は、太陽の存在を証明しているようなものです。そして、人間はその自分の内なる志向性によって、自分を超え出て行くとき 、 はじめて本来の人間になれる ということ ではないでしょうか。その意味で、祈りは、 人間の根源的な渇き であるとともに、 もっとも人間らしい行為なのではないでしょう。 それは人間の行為なのですが、 この渇きは神さまが与えられたものである以上、 人間に働きかけている 神の働き であり、 神の営みそのものなのです。 わたしたちの祈りは、 神の営みに他ならないのです。
イエスさまは弟子たちに主の祈りを与え、 パンを求める友人のたとえから 、具体的な信頼をもって祈るようにいわれました。 「求めなさい。そうすれば与えられる。探しなさい。そうすれば見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求めるものは受け、探すものは見つけ、門をたたく者には開かれる」と。 イエスさまは、「求めなさい。そうすれば、与えられる」と いわれま した。「多分与えられるだろう」とか、 「おそらく」などとはいわれません。 しかし、わたしたちは、神さまがわたしたちの自分勝手な願いは叶えてくださらないことを知っています。 わたしたちが、 自分勝手な願いを神さまに聞かせることが祈りではないからです。それでは、 わたしたちの願いではなく、イエスさまの願い、 イエスさま がわたしたちに与えると いわれたものは何でしょう 。それが、今日の朗読の最後に書いてあり ます。「天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」と。つまり、イエスさまが願っておられること、つまりわたしたちに与えたいと願っておられるものは「聖霊」 であると いわれます。 聖霊は神さまのいのちであり、神さま の愛の本質です。 神さま がわたしたちに願っておられること 、それは自らを与えることです。愛である神さまは、ご自身を与えることしかできないのです。それが聖霊を与えると いわれている こと です。神さまは愛でいらっしゃるので、自分を与えることしかできない。 だから 神さまが願っておられ、 わたしたちが願い求めるものは、愛を、神さまご自身を求めること であると いうこ と なのです。 この愛は、すべての苦しむ生きとし生けるものをすべて救いたいと願っておられる、イエスさまの真実の愛以外の何ものでもありません。 わたしたちが、求めなければならないものは、 このイエスさまの愛であり、イエスさまはその愛を、聖霊を必ず与えると いわれるのです。
わたしたちのうちにイエスさまの愛への渇きを与えられたのは、イエスさまであり、わたしたちのうちにおいて、その愛を願い求め ているのもイエスさまです。また、
その愛を必ず与える のもイエスさまです。 おそらく、 今までのわたしたちは、 わたしがイエスさまを知って、イエスさまを信じて、イエスさまに祈って、努力して、
聖霊が与えられる 、 そしてわたしが救われるのだと思っ ていたでしょう。 司祭たちも信徒たち も、 ほとんどそうだと思います。しかしそれは、まったく
違っている のです。 イエスさまの愛の世界は、そんなみみっちい話しではないのです。まして、聖体拝領をして、 清いものになって救われたような気分になること
などとは全く違うのです。 そうではなく、わたしたちすべてのものに愛の渇きが与えられているということは、 実はわたしたちにはすでに聖霊が与えられている
ということなのです。 聖霊はわたしたちのうちにおいて、 わたしとひとつになって愛を乞い求めておられる。そして、 すべての生きとし生けるもののうちに、
愛を乞い求めるものとしてわたしたちとともにおられるのです。 ですから、 祈りは、 イエスさまのわたし たち のうちにおけるイエスさまの働き 、営み、
聖霊の叫びに他ならないのです。 こうして、 わたしたちはイエスさまの祈りに乗せていただく だけなのです。