復活節第6主日 ヨハネ15章9~17節

復活節第6主日 ヨハネ15章9~17節

先週、ぶどうの木のたとえが話され、今日は、イエスさまが、わたしたちに残された相互愛の掟についての箇所が朗読されます。毎週続けて、聖書を読んでいくと、そこにひとつの流れがあることに気づきます。それは、大いなるいのち、永遠のいのちが、いつも根底に流れているということです。そして、そのいのちの本質は愛であり、今日はイエスさまとわたしの関りが、友情として描かれていきます。最後の晩餐の席で、イエスさまが弟子たちの足を洗い、「わたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合いなさい(13:14)」と言われました。そのイエスさまの洗足という行いは、イエスさまが、十字架の上で、ご自分のいのちを与え尽くすまで、わたしたちを愛されることを前もって表された出来事でした。最後の晩餐の席で行ったことを、イエスさまは十字架の上で実際に行われました。「友のために自分のいのちを捨てること、これ以上に大きな愛はない」。このイエスさまのいのちがけの業は、他の誰のためでもなく、このわたしのためであったということなのです。

親鸞が歎異抄のなかで、「弥陀の五劫思惟(ごこうしゆい)の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなるなり」と、しみじみと述懐していることと通じるところがあります。パウロも、晩年に「わたしのイエス」という言い方をし、「わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています…それらを塵あくたとみなしています(フィリピ3:8)」と告白します。イエスさまの福音は、すべての人のためのものですが、神学や知識のためではなく、また他人事でもなく、結局、わたし事とならない限り、わたしの心に届きはしないということなのす。「ああ、そうであったか。イエスさまの十字架は、他の誰のためでもなく、救われがたい罪業深重なこのわたしのためであったのか」ということに気づくということです。このことを、自分のこととして体験しない限り、キリスト教は綺麗事で終わってしまいます。イエスさまは誰のための存在であるのか、わたしは誰のための存在であるのかを問うことなしには、何も見えてきません。それを教会は今まで、あまりにも頭中心でやってきたように思います。

今日の福音では、「友のためにいのちを捨てることこれ以上に大きな愛はない…もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない…わたしはあなたがたを友と呼ぶ…あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」と、イエスさまは言われます。イエスさまがいのちをかけてくださったのは、友であるこのわたしなのです。パウロはその体験を感動的に、「正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のためならいのちを惜しまない者ならいるかもしれません。しかし、わたし(たち)がまだ罪人であったときに、キリストはわたし(たち)のために死んでくださったことにより…愛を示されました(ロマ5:7~8)」と言います。パウロは、復活されたイエスさまと出会う前、イエスさまの弟子たちを迫害し、殺害までしていました。だから、パウロは、イエスさまを十字架に付けたのは、他ならぬ自分であるということを、誰よりも意識していたと思います。それは、ユダとて、ペトロとて同じです。イエスさまは、そのパウロを、ユダを、ペトロを深い絶望の闇から救うために、ご自分のいのちをかけられたのです。親鸞もどれだけ修行をしても、自分の煩悩をなくすことが出来ない。悩みに悩みぬいて、「いずれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし」といいます。わたしは、自分をどのような修行や祈りではどうすることも出来ない、地獄行きの身でしかない。しかし、そのわたしのために、いのちをかけてくださった方がいる。だから、「親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべし」と言ったのでしょう。

イエスさまが復活されたとき、イエスさまが、弟子たちに生前言われていた相互愛の掟、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」という言葉が、初めて弟子たちの身に沁み、心に響いてきたのだと思います。それが出来るとか出来ないとかいう問題ではなくて、ただ、わたしは、イエスさまの愛によって救われた、いのちをかけられたのだということへの感謝しか、弟子たちにはなかったでしょう。今、イエスさまは復活し、大いなるいのちでわたしたちを包んでおられます。わたしたちは、イエスさまのこの大いなるいのち、相互愛の愛の坩堝(るつぼ)の中に入れられているということを、あなたも自分自身のこととして体験してくださいということ以外にないと思います。以前、「吉野山 転びてもなお 花の中」という句を紹介したことがあると思います。教義でもカテキズムでもなく、そのことが他人事ではなく、自分の身に起こっているのだということを体験するとき、義人であるとか罪人であるとかいうことに関係なく、大いなるいのちの内に生かされている自分の姿を発見します。そこでは、人は自ずから、イエスさまとの関り、人との関りが変えられていきます。それは、わたしが頑張って、努力して愛するのではなくて、イエスさまがわたしに働きかけて、わたしのなかでイエスさまの愛を信じさせ、イエスさまを、人々を愛させてくださるからです。そのとき、もはや愛は掟ではなく、自然なものになっていきます。

大自然のいのちの営みを現わすのに、「倒木更新」という言葉があります。大自然が、そのいのちを繋いでいくためには、古いものは新しいものに場を譲っていくということが必要です。原生林では、木が切られることがありませんから、何百年も生き続けた巨木がやがて枯れて倒れていきます。そうすると、枯れた木は次第に朽ちてゆき、その表面には苔類が生え始めます。そこに、木の種子が落ちて、木の子どもたちが育ち始めます。倒れた木の上は、光もよく当たり、雑菌もいませんから、枯れた木を養分として、すくすくと育っていきます。これが自然界の倒木更新と言われる現象です。つまり、「親は子のために倒れる」、そして、年月が経ち、子どもたちは大きくなり、その養分となって親は消滅していきます。しかし、親は子のいのちとなって、生き続けます。親は子のために倒れ、子は親を忘れない。子が親を忘れないのは、子に恩着せがましいことをしなかったからでしょう。だからこそ、子は親の恩を決して忘れることはありません。わたしたちも、イエスさまを知ることを通して、このような、大きないのちの営みの世界に入れられていることに気づく以外に何があるでしょうか。それ以外のことは、後からついてきます。「先ず、神の国とその義を求めなさい。そうすれは、これらのものはみな加えて与えられる(マタイ6:33)」からです。今日、改めて、わたしのためにご自分のいのちを与え、そして、今もわたしのいのちとなって、いのちを与え続けておられるイエスさまに思いをいたしましょう。そのイエスさまの恩に報いるのは、わたしたちが感謝し、皆がともに生きること以外にないことに気づかせて頂きたいと思います。

2021年05月05日