2026/3/12 四旬節第4主日 ヨハネ9章1~38節 (北村師)

四旬節第4主日 ヨハネ9章1~38節(2026/03/12)

北村師

今日は、生まれつき目の見えない人の癒しの物語です。ここでは、目の見えない人の癒しというより、人間にとって闇とは何かということが取り上げられています。わたしたちは闇というと、光がない状態、暗くて見えないことだと思っています。今日の福音の中のファリサイ人の反応は、わたしたちにとって闇とは何かを知ることの手掛かりになります。彼らは、「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」といい、省かれた朗読の箇所の中では「それでは、我々も見えないということか」とイエスさまに敵意をぶつけてきます。ファリサイ人の主張することは、自分たちは見えている、わかっている、自分のことは自分たちの努力で何とかできると思っているということです。わたしたちも、自分で頑張って努力して、キャリアを積んで、立派な人間になっていくことができると教えられてきました。特に日本人は真面目ですから、真面目がいいと思っています。ですから、洗礼を受けて、真面目に教会のミサに通って、教会でお話を聞いて奉仕活動して、それで救われるのだと思っています。わたしたちは自分の生活の中でもいろんなことが起こってきます。そのことをわたしが頑張って信仰することで、何とかしようとしているわけです。わたしたちは自分で懸命に生きており、自分の信心や自分の努力、真面目さで、苦しみや悩みを解決していける、そしてそのような自分を神さまは助けてくださると思っているのです。しかし、わたしたちは、このような考え方がどれほど危ういものであるかは考えたこともないのです。

自分が病気にかかっていることに気がつけば、治療を受け、薬を求めるということもできるでしょう。しかし、病にかかっていながら自分は病でないといい張るなら、治療を受けることはしません。わたしたちの愚かさというものは、自分は真面目にやっている、信仰しているつもりになっている、しかし自分のそのあり方がずれている、その自分の愚かを知らないことからくる愚かさなのです。一応謙遜しますが、自分が愚かであるとは少しも思っていません。だから自分が迷っていることさえ気づかない愚かさなのです。むしろ、自分は信仰深くて、自分こそが教えることができる、人を指導することができると思っているのです。この自我こそが、治療不可能な重病だということに気がつくこともありません。わたしたちはこのような深い深い闇を抱えているのです。特に宗教をやっている人たちは、気をつけないと気づかないうちにこの病にかかっています。そのような人たちは、真面目に信仰して、努力していれば何とかなる、神さまは自分を守ってくださると思っているのです。そして、人生をそのようにやっていくわけです。祈れば何とかなる、真面目に一生懸命していたら何とかなる、神さまが助けてくださる、そして自分こそ天国にいける人間だと思っているわけです。これこそが愚痴、無明というわたしたちの真の愚かさ、真の闇なのです。それは、わたしが闇の中にいることさえわからないほどの暗さ、愚かさなのです。

それでは、わたしたちはどのようにこの己の闇に気づいていくことができるのでしょうか。それはイエスさまからの呼びかけを聞くことを通してであるといえます。闇ということばは、門に音と書きます。闇は、すべてに対して門戸を閉ざしていること、自分の思い、自分のはからいの中に閉じこもっていることであるといえます。わたしたちのあり様というものは、光に包まれているのにも関わらず目を瞑っている状況なのです。光がないとか、イエスさまがおられないのではなく、光であるイエスさまに対して門を閉ざしていることを闇というのです。目を閉ざしているので光は入ってきません。しかし、音は入ってきます。そこに「シロアムの池に行って洗いなさい」というイエスさまの声が聞こえてきます。それで、その人が行って洗うと、目が見えるようになりました。イエスさまの声を聞いて、声に従って目を洗うと、わたしがこの光に満ちた世界にいることに気づかされます。自分は光の世界にいたのに、目を瞑って光を
拒絶していたことに気づかされるのです。イエスさまは何も区別しておられないのに、わたしが自分で努力して頑張って、信仰して上に行こう救われるものになろうとしていた、しかし、何のことはないイエスさまはわたしとともにおられたのだという気づきが感動となり、救いとなるということなのです。わたしたちは光の世界にいながら眠っている人のようなものであるといえるかもしれません。眠っている人をどのようにして呼び起こすのかというと、その人の名前を呼ぶことではないでしょうか。人間は意識不明に陥っても耳は聞こえているといいます。人の魂の耳は開いているのです。イエスさまは、死んだも同然のわたしの名を呼び続けておられるのです。

ヨハネ福音書の中で、マリア・マグダレナがお墓の中に死んだイエスさまを探していたのに、復活されたイエスさまはマリアの後ろに立っておられたという箇所があります。イエスさまがおられないのではなく、マリアがイエスさまに背を向けていたのです。暗いのはわたしが目を瞑っているからであって、世間のせいでも、誰かのせいでもなく、わたしのあり方の問題なのです。そのわたしのあり様に気がつかないことを愚か、闇というのです。そのマリアにイエスさまは「マリア」と呼びかけられ、はっと気がつく。わたしたちの愚かさというのは、自分の闇を自分でつくりだして、光の世界に背を向けていることなのです。しかしながら、イエスさまはそのわたしを愛おしんで、目を瞑り続けている、光の世界から逃げ続けているわたしを呼び続けてくださっているのです。そして、はっと気づく、闇が破られ光が射す、それがイエスさまの声が届いたということなのです。回心といってもいいでしょう。

しかし、それによってわたしの愚かさがなくなるということではありません。闇も愚かさもなくなりません。夜が明けたわけではなく夜明けが来ることがわかる、空がどれだけ雲に覆われていても太陽があることがわかるということだといえばいいかも知れません。わたしのこころがきれいになったり、問題が解決したり、悩みがなくなることではないのです。自分のこころを何とかしようとすることで、救われるのではないのです。救われたいと思う前にすでに救いはあったのだということ、どんなに状況が過酷であったとしても、わたしを呼びかけておられる方がいる、わたしを救い取って捨てないといわれる方がいることが我が身に知らされること、これを真の信仰というのです。わたしがわたしのこころをどうこうする、わたしのこころがどうこうなることではないのです。わたしのこころを見ればそこには自分の都合と欲、自我のはからいしかありません。わたしのこころがどうこうなること、こころが平和になったり、ありがたい気持ちになったりすることと救いは何の関係もありません。わたしたちのうちにいかにも信者ぶったところがあるなら、それは自分がこしらえた信仰に過ぎません。そのようなこころ、信心は長続きしません。そうではなく、わたしを抱き取って決して離さないといわれるイエスさまのこころを知らせていただくこと、そのイエスさまの願い、働きがわたしに届くことを真の信仰というのです。その信仰は神さまから与えられたものであって、わたしたちが作り出せるものではありません。

 

2026年03月22日