主の昇天 マルコ16章15~20節

主の昇天 マルコ16章15~20節

今日は主の昇天のお祝い日で、マルコ福音書の補遺の部分が朗読されます。この部分は、元々のマルコの福音書にはなく、明らかに他の福音書が成立した後に、加筆されたものであると言われています。マルコ福音書は、元々は16章8節で終わり、弟子たちをイエスさまとの最初の出会いの地であるガリラヤにいざない、そこから再び福音宣教の旅へと招くことで終わっています。今日、読まれる箇所は、ほとんどはマタイ福音書とルカ福音書の弟子たちの派遣とイエスさまの昇天についての記述をもとに構成されています。特に、昇天の箇所は、ルカ福音書の第2部でもある使徒言行録の書き出しからの引用であり、ルカだけの記述に基づいています。ルカは主の昇天を、イエスさまへの天への旅立ちとして描いたのではなく、イエスさまの復活のひとつの側面を説明するために描かれたと言えます。そもそも、イエスさまの復活そのものを体験した人は、誰もいません。聖書に書かれているのは、空の墓の物語と復活されたイエスさまと弟子たちとの出会いの物語だけで、イエスさまの復活自体が何であるかは何も描かれていません。そのような中で、ルカはイエスさまの復活を、イエスさまの昇天という形でも説明していこうとしたのだと思われます。

《そのように考えていくと、主の昇天というお祝い日は、イエスさまが天に昇っていかれて、雲を突き抜けて見えなくなられたというような、おとぎ話ではなく、イエスさまの復活が何であるかを説明しようとした試みであると言えるでしょう。この現代に、誰が、真面目にイエスさまが空に昇っていかれたことを信じている人がいるでしょうか。主の昇天は、イエスさまが天に昇っていかれたという寓意的な表現を用いて、イエスさまの復活について述べているのだと言えます。もちろん、昔の人たちが、純粋にイエスさまが天に昇っていかれたと信じていたことが嘘だとか、意味がなかったというつもりはありません。そうではなく、今、わたしたち現代人が、イエスさまが天に昇っていかれたということを、文字通りにとる必要はないということです。イエスさまの時代に生きていた人々は、神さまは天におられると思っていましたから、信仰宣言でも「天に昇って、全能の父である神の右の座に着き」というように、素直に捉えていたのでしょう。

イエスさまが、十字架の上で亡くなった後、しばらくしてから、弟子たちは、死んでしまったイエスさまと自分たちが、生きている人同士が具体的にコミュニケーションをするのと同じような、生き生きとした出会い、関わりを、直接に五感に訴えるような形で体験したということがあったのだと思います。これが弟子たちの復活体験と呼ばれるもので、教会の創立につながっていきます。特に、教会の草創期にあって、弟子たちには、神さまの特別な介入がありました。でなければ、イエスさまの復活という出来事は、人間と何の関係もない画餅に終わってしまいます。イエスさまの弟子たちは、律法学者でも教師でもありませんでした。どちらかと言えば、ガリラヤの素朴な漁師を中心としたグループでしたから、自分たちの五感に直接に訴える特別の体験がなかったら、イエスさまの復活を信じることは出来なかったでしょう。また、彼らは、そうした体験を素直に受け止める素地もあったということだろうと思います。そして、イエスさまの復活を理解するためには、ある程度の時間も必要だったでしょう。彼らが、自分たちに起こっていることを反芻し、そのことに身を委ね、内省し、イエスさまの復活を、他人ごとではなく自分たちのものとしていくことが必要だったのだろうと思います。それなしには、弟子たちが、福音宣教に飛び出ていくということはあり得なかったでしょう。彼らは、見ないで信じられる人たちではなかったのです。

しかし、弟子たちは、あるときから、そのような非常に具体的な神さまの働きを、感覚的には感じなくなっていったということだと思います。それによって、復活されたイエスさまがいなくなったかというとそうではなく、むしろ、弟子たちは五感を通してではなく、もっと生き生きとした形で自分たちの内にイエスさまが現存されるのを体験するようになっていきました。つまり、弟子たちの内にイエスさまと同じいのちが宿っているということを、感覚というものを通してではなく、体験するようになったということです。この恵みが、信仰と呼ばれます。信仰と言うと、“わたしが”信じることだと思われがちですが、そうではなく、わたしたちがイエスさまと関わるために、イエスさまがわたしたちに与えた恵み、手段なのです。現に、今、わたしたちはイエスさまを信じることによって、イエスさまを体験しています。新しい聖書協会共同訳では、ヘブライ人への手紙の中にある信仰の定義について、今までは「信仰とは、望んでいる事柄を確信し…」と訳していた箇所を、「信仰とは、望んでいる事柄の実質であって…(11:1)」と訳し直しました。今までは、信仰は、わたしたちが望んでいることを、わたしが確信するという人間の行為として強調してきました。しかし、新しい訳では、原文に従って、信仰は、わたしたちが望んでいることの実質、つまりわたしたちが望んでいること“そのもの”だと言ったのです。分かりにくいかもしれませんが、今までは信仰は、わたしが自力で、頑張ってイエスさまを信じることであると考えられていたのですが、そうではなく、信じるということ自体が、イエスさまの恵み、イエスさまの働き、つまり“イエスさまご自身”であると言ったのです。ここに、信仰理解の本質的な視点の大転換があります。

信仰とは、わたしが頑張って信じるという心を作り出すことではなく、イエスさまの復活によって、イエスさまの願いがわたしの内に働いて、そのイエスさまの働きがわたしに振り向けられれた結果、わたしの中に引き起こされるものとして捉え直したということです。それは、子どもが親に対して信頼をもつのは、先ず親が子どもを養い育てていくという前提があって、子どものうちに親に対する信頼が引き起こされていくのと同じです。信仰も、わたしたちが、自力で信じる心を作り出すのではないということです。もちろん、わたしが信じるという要素はありますが、イエスさまがわたしとひとつとなって、わたしの中で主体者、行為者として働いておられるということなのです。「主は、彼らとともに働き、彼らが語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった(16:20)」と書かれていることです。これが、イエスさまの復活のひとつの理解だと言えるでしょう。つまり、パウロが、「生きているのはもはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです(ガラ2:20)」と言った体験と同じです。復活されたイエスさまが、パウロに出会いに来られることによって、パウロはイエスさまを信じるようになりました。ですから、復活されたイエスさまと出会うということは、わたしたちの中で、わたしではなくて、先ずイエスさまが導き、主体者であること、いのちの源であることに気づきかせて頂くことだと言えるでしょう。わたしの中で何かよいことをしているとしたら、それはわたしではなく、わたしの中のイエスさまなのです。

京都女子大の共同創立者の九条武子は、「大いなる ものの力に ひかれゆく わがあしあとの おぼつかなしや」という句を残しています。自分のおぼつかない人生を振り返ってみると、自分が歩んできたつもりだってけれど、大きな力に導かれていたのだ、という思いを詠んでいます。わたしが、わたしがと言って囚われて、苦しんでいるわたしたちの中で、目に見えなくても、実はイエスさまが、先ずわたしに働きかけ、主体者として生きておられたということに気づく体験、それが主の昇天、つまり、イエスの復活のひとつの意味ではないでしょうか。こうして、教会は見なければ信じないのではなく、見なくても信じる信仰の時代に入っていくのです。

2021年05月13日