年間13主日 マタイ10章37~42節

年間13主日 マタイ10章37~42節

今日の福音の中でイエスさまは、ご自分に従うものの心構えを教えておられます。非常に厳しいものが要求されているように思えます。家族を置いて、自分のいのちを横に置いて、自分の十字架を担って従うことが求められています。わたしたちは、それは修道者や司祭のためだと思ってしいますが、果たしてそうでしょうか。そこで、今日はイエスさまが言われた、「自分の十字架を担って」という言葉からお話ししてみたいと思います。

ここで、イエスさまは自分の十字架を担ってと言われ、他人の十字架を担いなさいとは言われませんでした。イエスさまが求められたのは、「自分の十字架」を担うということです。それでは、他人の十字架や苦しみは放っておいてもよいと言われたのでしょうか。そうではないと思います。しかし、そもそもわたしたちは、他人の十字架や苦しみを、またその人の抱えている問題を担う、すなわち、代わることができるのという問題になります。勘違いしている信徒や司祭が結構いるようですが、結論からいうと、答えはNOです。もちろん同じような体験をした人たちがいて、お互いに分かち合ったり、支え合ったりすることは出来るでしょう。例えば、AAやいろいろな自助グループは、皆が当事者として分かち合い、支え合うことで回復を目指していきます。しかし、どのような事でもそうですが、大前提があります。それは、自分が当事者であるということを、まず認めることです。実はこれがなかなか大変なことで、堕ちるところまで堕ちないと、自分が当事者であることを認めることは難しいようです。

仏教の経典の中に「有無代者(うむだいしゃ)」という言葉があります。読下し文は、「有(だれ)も代わる者なし」となります。どういう意味かというと、人生の中で苦しいこと、悲しいことに出遇っても、誰も代わってくれないし、自らこの苦しみ悲しみを引き受けていかなければならないという意味です。たとえば、我が子が病で苦しんでいるとき、親としてみるに忍びない、もし代われるものなら代わってやりたいと、親なら誰しもが思うでしょう。しかし、そう思ってもどうしようもない。代わることはできない。子どもに与えられた苦しみです。子どもがその苦しみを引き受けていくしかないのです。

イエスさまもそのことを言われたのではないでしょうか。あなたはあなたの十字架を背負ってわたしに従いなさい。ここで言われる十字架は、わたしに与えられた様々な状況です。病であったり、気質であったり、自分が選んだわけではない、与えられたどうすることも出来ない環境や状況です。わたしたちは生きていくときに、様々な困難や障がいに直面します。思い通りにならないことばかりです。「何でわたしだけがこんな目にあうのか」と愚痴や腹だちの心をおこし、自分は悪くないと苦しみの原因を責任転嫁したり、そこから逃れるために占いやご利益宗教に走る人もいます。苦しみは、たとえ祈ってもなくならないこともあります。自らが引き受けていくしかないのです。確かに、イエスさまは必要であれば病気を治し、パンを増やすこともされました。しかし、生前のイエスさまと出会った人は一部の人だけです。イエスさまは、今も、わたしたちの苦しみをご覧になって、もし代われるなら代わってあげたいと願っておられることでしょう。しかし、イエスさまといえども、代わることは出来ないのです。それなら、そのようなわたしたち人間を、どのようにしたら救うことができるのか、長い長い間苦しんで、お考えになって、わたしたちと世の終わりまでともにいて、苦しみをともにする方法を見つけ出されました。それが、イエスさまが、自分の十字架を引き受けること、そして復活のいのちに入ることでした。それによって、イエスさまは、わたしと永遠にともにおられる神となられました。そのイエスさまの十字架の死を記念し、ともにおられるという現実を再現するのが、感謝の祭儀です。

あなたはあなたの十字架を背負って、わたしについてきなさい。わたしはあなたとともにいるからと、常に呼び掛けてくださっています。なぜなら、イエスさまはわたしたちに先立って、自分の十字架を背負っていかれました。イエスさまは、自分であることを生き抜かれました。そして、わたしの一歩前を歩いておられます。あなたは、あなたであることを生きてほしい。信じてついてきなさい。わたしはあなたを救う神であるからと。わたしはどんなに頑張っても、他の人になれません。わたしはわたしを生き、わたしになることしかできないのです。そのことを受け入れる覚悟ができるとき、今の苦しみからわたしたちを解放されていきます。イエスさまは先達として、同伴者として、わたしたちとともにおられます。そのイエスさまの呼びかけに気づかされ、応え従うこと、これがイエスさまを信じることなのです。そして、これがいのちの道であり、すでに救われてあることに気づかれていく感謝の生活が始まるのです。

2020年06月29日