四旬節から復活祭へ

「四旬節から復活祭へ」
洛北ブロック担当司祭

 今年も3月6日の灰の水曜日から四旬節が始まり、復活祭に向けて歩んできました。古くから、四旬節は復活祭に洗礼を受ける志願者の直前の準備期間と考えられてきました。また、すでに洗礼を受けた信者も、この期間をとおして、自分の信仰生活をふり返り、主イエスとの出会いを新たにする時期とされてきました。
 現代において、四旬節から復活祭に向けての歩みで3つの点が強調されています。第1その期間は復活祭に向けての準備の期間です。第2は洗礼志願者にとって洗礼に向けた、最後の準備の期間です。洗礼はキリスト者になるための最初の秘跡で、ここからキリスト者としての生涯の歩みが始まります。卒業式ではなく、入学式です。それも小学校に入ったようなものです。
 第3は洗礼を受けたすべての信者が洗礼志願者と共に洗礼の恵みを新たにし、真のキリスト者になり続けるために特に回心の恵みを求める時期です。回心とは大斎や小斎の義務を果たし、犠牲をすることではありません。回心は神からの恵みであって、神の愛に触れることによってのみわたしたちにもたらせる神の恵みです。
 多くの信者は洗礼を受けた時点で、幼児洗礼であれば日曜学校を卒業した時点で、信仰の成長が止まってしまいがちです。なぜなら、その後、学び、聞き、分かち合うということを止めてしまいがちで、信仰を自分の心のあり方や気持ちの持ち方であるかのように思ってしまうからです。それによって自分の作り上げた自分の勝手な信仰というお城の中に安住してしまいます。例えば今日の説教はよかったというとき、それは単なる自分の作り上げた偽りの信仰観と話しが合っていたということではないでしょうか。そうなると益々、信仰と呼ばれる自分の信念を強化するだけで終わってしまいます。
 誰でも自分の耳に痛いこと、都合の悪いことは説教にかかわらず人の話も聞こうとはしません。回心とは学んで、学んで、聞いて、聞いて、お互いに分かち合うことを通して、それぞれの信仰を確かめ合って、自分の思い込み、自分の愚かさに気づかされ、自分のこの身をどうすることもできないことに自分が気づいたときに、神からの与えられてくる恵みです。
 その人が回心の恵みを生きているか、本当の信仰をもっているかどうかは、その人の生き方、人との関わり方に反映されてきます。その人の中に相手に対するおもいやりや愛、謙遜、相手に対する関心がないのであれば、その人は愛において、信仰において歩んでいるとは言えません。真面目にミサに来ているとか、洗礼を受けて何年経っているとか、教会で何か奉仕・仕事しているとか、何かの信心グループに属しているとかには全く関係ありません。ある意味で洗礼の有無にさえ関係ありません。
 先ず己のどうしようもない愚かな現実を知ること、そして老若、男女、善人罪人を問わずわたしを愛しゆるし、わたしのために命を投げ出してくださる方がいることに気づくこと、これがキリストの受難・死。復活を通してその愛と出会うことであり、四旬節を通して復活祭を特にお祝いする意味なのです。そのことを心から体験すれば、わたしたちはキリスト者であることが自然にうれしくなり、喜びとなり、感謝に満たされます。そして、わたしたちの存在そのものが福音宣教となって、心と体が動き出します。そのために、常に謙虚に神のことばを聞き、お互いに人々の声に耳を傾け、分かち合い、信仰を確かめ合っていくことを大切にしていきたいと思います。
(四旬節メッセージを編集して、「四旬節から復活祭」へとしました)

2019年05月02日