年間第12主日 マルコ4章35~41節

年間第12主日 マルコ4章35~41節

今日はガリラヤ湖で、物語が展開します。聖書に出てくる海や湖は、人間の力ではコントロールできないものの象徴です。わたしたちが、自分の力でどうすることも出来ないものは、いろいろありますが、その第一は人間の一生、人生でしょう。このように、思うままにならない人間の人生をあらわすものとして、仏教でも苦海ということばが使われます。今日の物語でも、激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになります。わたしたちの人生も、自分の思い通りにならないことの連続です。今までの人生を振り返ってみてもそうだったでしょうし、これからの先のことを考えると、まさに人生は苦海であると感じるでしょう。大変なときは、自分のことで精一杯で、他の人のことを考えている余裕などありません。どんな時でも、他の人のことを考えましょうというのは簡単ですが、何かあれば自分を一番にしてしまうというのも、悲しいですが、わたしたちの姿なのだと思います。弟子たちも、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言います。先生であるイエスさまのことなど、そっちのけで、自分のことで精一杯な自分勝手な弟子たちです。コロナ禍で、自分も感染しているかもしれないと思って行動しましょうと言われていますが、結局は自粛に疲れて、自分のやりたいことを優先させてしまうのがわたしたちです。これが、小慈小悲もないわたしたち人間の本性でしょう。自分の胸に手をあてて考えてみると、そのような自分の姿に気づかされます。

しかし、今日、「向こう岸に渡ろう」と言われたのはイエスさまです。この苦海に、舟をこぎだそうと言われるのはイエスさまなのです。そのイエスさまは、その舟の艫-舟の後方の部分-で、眠っておられます。わたしたちは、このようなことも度々経験するのではないでしょうか。わたしがこんなに困っているのに、わたしがこんなに苦しいのに、わたしがこんなに辛いのに、イエスさまはどうして助けてくださらないのか、どこにおられるのかと思ってしまいます。実際、そのようなとき、イエスさまは、わたしたちの願う方法では助けてくださらないことがほとんどです。イエスさまの願いとわたしの願いは、必ずしも同じではないようです。しかし、結局、イエスさまは、わたしにとって一番よい方法を考えてくださっていたことに、後から気づきます。今日の福音は、そのような苦しみの中で、イエスさまがおられないのではなくて、眠っておられるのだということを伝えているように思います。わたしたちの人類は、イエスさまという大舟に乗っているような仲間のようなものです。しかし、わたしたちは、船長さんのイエスさまを、いらっしゃらないと感じてしまいます。なぜならば、イエスさまはちゃんと舟の艫におられるのですが、それをわたしたちはイエスさまの不在として感じてしまうからでしょう。しかし、イエスさまの救いの舟に乗っている限り、舟は必ず向こう岸に着きます。わたしたちは、東京行の新幹線に乗ったら、安心して荷物を降ろして、席に座ります。それは、この新幹線が、必ず東京に着くことを知っているから、新幹線に自分を任せて、座っていられるのです。しかし、わたしたちの現実は、東京行の新幹線に乗りながら、きちんと着くかどうか分からないので、新幹線の中で荷物を抱えて、一生懸命走っているようなものではないでしょう。そのようなわたしたちに、イエスさまは、あなたの荷物を降ろして、わたしを信じて任せなさいと言われているのではないでしょうか。「なぜ怖がるのか。まだ、信じないのか」というイエスさまのことばは、任せ切ることが出来ないわたしたち人間への問いかけとなっています。ということは、信仰は、わたしの中に引き起こされますが、わたしが自力で作り出せるものではないということなのです。わたしが、作り出したと思っている信仰など、人生の老病死や困難の前では、いとも簡単に崩れ去ってしまいます。人間の作り出せるものは信念であって、信仰ではないということなのでしょう。わたしたちが、安心して新幹線に乗っていられるのは、わたしの信念のおかげではなく、新幹線の性能と安全性のおかげです。わたしたちが信じられるとしたら、その信仰を引き起こしているのは、間違いなくイエスさまご自身に他ならないのです。わたしの心が強いからでも、わたしの努力の結果でもないのです。それを間違うと、あの人の信仰は浅いとか、自分の信仰は強いとかいう比較、分断、差別を生み出し、自分の考えと違う人を排除してしまいます。

結局、 わたしたち人間は、自分でやることが好きなのです。わたしたちの人生は、全部自分の設計した通りになることが幸せだと思っています。しかし、胸に手を当てて振り返ってみると、わたしたちの一生は、自分のすべてを、自分を受け取ってくれる人に、親に、自分のすべてを任せることから始まります。赤ちゃんは、自分を誰かが引き受けてくれることを信じて生まれてきます。動物のように、自力で立ち上がってお乳を吸うことは出来ないのです。しかし、成長するにしたがって、任せることを嫌い出します。自己主張の始まりです。これを成長と呼ぶのでしょうが、親から見れば反抗です。そのようにして成長していき、若いときは、やりたいことをやっていく。しかし、だんだん歳をとっていくと、自分で出来ないことが増えてきます。そうすると、「若いときには、何でもできたのに」と愚痴を言いはじめます。わたしたち人間は、どうも自分でやって、任せられることは好きなようですが、任せることは嫌いなようです。自分で全部やりたいんです。わたしもそうです。でも、出来ないときが必ず来て、そのとき、「イエスさま、わたしが溺れてもいいんですか」とイエスさまを揺り起こします。これがわたしたちの本性なのでしょう。どこまでも行っても、自分勝手な愚かなわたしです。

しかし、わたしたち人間は任せられることではなくて、任せることによってしか本当の人間としての成長はないのではないでしょうか。わたしたち人類は、イエスさまという救いの願舟に乗せられています。もし、この救いの舟がなければ、どうしてこの苦海を渡ることが出来るでしょうか。わたしたちがイエスさまと出会うとき、自分が救いの願舟に乗せられていることに気づき、いかにわたしたちが自分勝手であったかも知らされてゆくのでしょう。もちろん、イエスさまとの出会い、自分の愚かな身に気づいたとしても、その愚かさは生涯、変わることはありません。しかし、自分の愚かさを知っている人と、自分の愚かさを知らない人では、その人生が大きく変わっていくように思います。イエスさまの救いの舟に乗せて頂いているということが、いろいろなことに突き当たって自分の角が折れて、初めて気づかされていくのでしょう。以前にも引用した九条武子の歌に、「いだかれてありとも 知らずおろかにも われ反抗す 大いなるみ手に」というのがあります。わたしたちの人生は、イエスさまという大いなるみ手の中にあるのにもかかわらず、反抗し、自己主張をし続ける。わたしたちは、その愚かささえも分からないほどの愚かさの闇を抱えています。しかし、そのわたしをも、抱き取って離さないイエスさまのみ手の中に、救いの願舟に乗せられているということなのでしょう。弟子たちの多くは、漁師でしたから、ガリラヤ湖の嵐に対処する方法も知っていたはずです。しかし、そんな彼らの経験など、及びもつかないような嵐に見舞われます。わたしたちも同じで、キリスト者であるから大丈夫なんて、そんな人間の浅はかな知識や経験も通用しないような嵐が、わたしたちの人生にはおこってくることがあります。それは、まさに、わたしはイエスさまを信じていますという自分が思い込んでる信仰を、もう一度見直しなさいという呼びかけのように思います。ああ、そうではなかったのだ、この信仰もイエスさまから頂いたものなのだということに気づくとき、イエスさまを本当の意味で信じる新しい信仰生活が始まるのだと思います。

2021年06月17日