いつかマリア様のように
洛東ブロック担当司祭 菅原友明
聖母被昇天祭おめでとうございます。マリア様は地上での旅の終わりに、肉体も霊魂も、天の栄光に引き上げられました。このことが示してくれるのは、マリア様が救われた最初の人間であるということ、そして、私たちもすべて、マリア様のように救われることができるのだということです。
マリア様はイエス様を胎内に宿した時から、その十字架の死にいたるまで、いつもイエス様と結ばれていました。受胎告知の時には、戸惑いながらも、「お言葉通りにこの身になりますように」と、主の言葉を受け入れました。ご受難の時には、心を剣で刺し貫かれながらも、その十字架の下にお立ちになりました。このようにイエス様の地上での歩みに特別に与ったマリア様だったから、天に上げられて、永遠にイエス様の隣におられるのです。
マリア様の生き方は、どんな時にでも、「出来事を心に留めて思いめぐらす」というものでした。それは「あきらめ」や「弱さ」や「無気力」ではなくて、「忍耐」と「従順」と「謙遜」でした。自分に直面する事態に、迷い、悩み、心を痛めながらも、それでもその出来事の中に秘められている神様の御心に信頼していく、そんな姿勢でした。マリア様の「忍耐」「従順」「謙遜」こそ、私たちが彼女に見習うべきことです。
無原罪という特別な恵みをいただいていたからそんな生き方ができたんだ、私達とは別物なんだ、そんなふうにマリア様を突き放してしまったら、一番大事なことを見失ってしまいます。マリア様ご自身は、聖書においても、教義においても、私たち普通の人間に真似のできないことなど何一つしていません。無原罪も処女懐胎も被昇天も、すべては神様のみわざです。聖母被昇天の教義は、マリア様が私たちからかけ離れた別格的存在だということを示しているのではなくて、私たちが天に上げられてゆくことの始まりの出来事を示していると言えます。私たちがマリア様の生き方に倣うのは、彼女の生き方の中にこそ、私たちの旅の到着地である復活の命を見出すことができるからです。
聖母被昇天祭にあたって、私たちは、天に上げられてゆく慕わしいマリア様のお姿を黙想し、創られたすべてのものの救いのために、その取次ぎを願い求めてまいりましょう。