250914 Homily
鶴山 進栄
去年見た動画からお話ししたいと思います。今回紹介したいと思ったのは若年性認知症の方についての動画です。この方40代で認知症を発症しました。もともとは魚屋さんでお勤めだったそうですが、ある日、お客さんの注文を忘れる、仕事の手順が分からなくなる、そして同僚の名前が出てこない。仲間に迷惑をかけたくないという思いから退職。今は介護の仕事をされているそうです。 この動画の最後に、ご本人がこう述べられていました。「診断を受けて2年にもなると、失敗し続ける、いろんなところで。でもふと考えた時に、道を間違えたところでなんとか家に帰れる。忘れたり間違えたりするけど生きていく上ではかすり傷みたいなもんかな」。 困惑と失望を通り抜けての言葉ということかなと理解しています。この動画の解説を読みますと、認知症と診断された当初は「目の前が真っ暗になった」ような思いだったそうですが、今は「認知症になっても終わりじゃない」と言われます。
では今日の第一朗読を見てみましょう。今日の第一朗読が教えていることはものの見方を変えるということですね。蛇と青銅の蛇というのが今日の第一朗読のポイントになります。蛇はくねくねとして形が定まらない、そして地を這うもの。でも青銅の蛇はしっかりと定まり、しかも垂直的なものです。垂直ということは神様へと向かうものの見方に気が付いたということです。 「粗末な食物」つまりマナしかないととらえるのか、マナがあると捉えるのか、ということですね。
第一朗読のポイントはものの見方を変えるということですので、このことを念頭に考えてみたわけですが、昨年見た、若年認知症になられた方の失望を潜り抜けた後、希望をもって今を生きている様子を私は思い浮かべたわけです。
そしてもちろんこれは今日の福音の箇所にも繋がります。「人の子も上げられねばならない」。十字架に上げられるという意味と天に上げられるという意味です。十字架を通って復活へ。その意味することの一つはマイナスからプラスへということですし
そしてもちろんこれは今日の福音の箇所にも繋がります。「人の子も上げられねばならない」。十字架に上げられるという意味と天に上げられるという意味です。十字架を通って復活へ。その意味することの一つはマイナスからプラスへということですし、今日の第一朗読と同じ意味だと理解していいのかなと思います。、今日の第一朗読と同じ意味だと理解していいのかなと思います。
参考資料
・「目の前が真っ暗になった…」 40代で若年性認知症を発症した男性絶望の淵で見つけた希望とは―【ウェークアップ】読売テレビニュース 2022年9月24日
https://youtu.be/hRtmaOjkHHk?si=E1Y0CotRZFmTHY6J
・参考文献 救いと恵みのミュステリオン~秘跡の神学と教会の活性化 佐久間 勤 編著「旧約聖書とシンボル~秘跡理解を豊かにするために」 佐久間 勤 師 著 P442-446 2003年 サンパウロ