待降節第1主日 マルコ13章33~37節(北村師)

待降節第1主日 マルコ13章33~37節

待降節に入りました。今年の待降節は今までにない、特別の待降節になりました。今年の3月からコロナウイルスが広まり、ミサがなくなったり、教会活動が自粛されたりしてきました。今、また、急速に感染が拡大する中で、クリスマスの準備になりました。わたしたちはこのコロナ禍の中でいろいろなことを考えさせられる機会となりました。今日の福音に「気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである」とあるように、わたしたちはこのコロナの状況を少なくとも、今年の初めには、誰も予測できませんでした。しかし、このような状況の中で、典礼暦年の初めにあたり、わたしたちはいろいろなことを改めて問い直す機会ともなっているのではないかと思います。

待降節は、アドベントと言われています。日本語の訳では主の降誕を待つという意味になっていますが、正確な訳は「主が来られる」という意味になります。誰が待降節と訳したかは知りませんが、ここに、根本的な問題が含まれていると思います。確かに、待降節という訳語は、主の降誕を待つという意味ですが、それはあくまでも、待つという人間の立場からの発想です。イエスさま側の立場からすると、主が来るということであって、主語はイエスさまです。人間が待つということではなく、あくまでも「イエスさまが来られる」ことが中心になります。日本の教会というか、カトリック教会のいろいろな根本的な問題は、イエスさまを立場としないで、人間を立場としてきたことが、いかに多いかということです。これもキリスト教が、ローマ帝国やそれ以降の国家権力との確執を避けて通ることが出来なかった負の遺産でしょう。しかし、教会がいつまでも、その体質を引きずっているのは問題だと思います。

今日の福音でも、主人の立場で読むか、門番と僕の立場で読むかによって、全く変わってきます。わたしたちは概して、門番や僕の立場からしか読みませんから、主人がいつ帰ってくるか分からないので、びくびくしながら、目を覚まして準備していなければならないとしか読めません。でも、主人の立場から読むとそのようなものは何もなく、ただ主人の帰還ということだけです。

わたしたちはどこまでいっても、人間の立場からきりしか考えられません。だから、何事も人間の計らいの域を出ません。どんな素晴らしいことを計画して、実行したとしても、立派な自分のお城を建てただけで終わってしまいます。これでは、イエスさまが入り込む余地はありません。日本の教会の問題はこれだと思います。いろいろ計画されていて、それなりに動いているようですが、そこに何か、根本的に欠けているものがあります。それは何でしょうか。それは、イエスさまがすでに来て、わたしたちとともにいてくださるという喜びです。日本の教会は、イエスさまが入り込む余地がありませんから、喜びがないのは当たり前です。だから、イエスさまのこの素晴らしい福音を皆に伝えていくんだ、という喜びや熱気が感じられません。無事に日曜日のミサに参加して、聖体をもらって帰るだけで、満足している感があります。一生懸命に今ある教会を管理している、それも必要なのですが、この喜びを誰かと分かち合いたい、このいのちを誰かと一緒に生きたいというような気迫があまり感じられません。ただ義務を果たし、自分のお葬式が教会でしてもらえるかどうかを心配している、これが信仰と言えるでしょうか。こんな集まりに誰が新たに入りたいと思うでしょうか。

コロナウイルスが広まって、ミサがなくなり、「聖体拝領がしたい、聖体拝領がしたい」という声があちこちから聞こえてきました。その気持ちはよく分かりますが、ミサは「聖体拝領式」ではありません。イエスさまがその生涯をかけて、わたしたち人類を罪と死の闇から解放してくださった、その死と復活を記念する「感謝の祭儀」です。ミサが、単なる人間の「わたしの聖体拝領式」になってしまい、イエスさまへの「感謝」になっていない、こんなに酷いことがあるでしょうか。イエスさまを待つという人間の立場に拘り、実は、もうすでにわたしたちのところに来てくださっているのに、アドベントを主の降誕を待つ準備や修業、犠牲のときと捉えて頑張っている。もちろん、それはそれでいいのですが、イエスさまが望んでおられることはそうことではないでしょう。まったく的外れな、人間の立場でいろんなことをやっている。そのことに気づきもしないで、よいことをやっているつもりになっている。そのわたしが回心へと招かれること、それこそがアドベントを生きる本当の意義ではないでしょうか。回心とは、自分を立場としているわたしたち人間の発想、価値観を、あのエルサレムの神殿での出来事のように、イエスさまが来て転覆させてくださることです。そして、そこから、初めて真の信仰生活が始まるのです。今までは、自分の小さい頭で作り上げた信仰生活に過ぎなかった。回心とは、イエスさまからの恵みですから、先ず自分を立場としている己のあり方に気づかされ、そのあり方が問われることです。その意味では、自分の心を改めることや、反省をするだけでは、真の信仰に至ることがいかに難しいことかということです。今こそ、アドベントの意味を正しくとらえ直して、真の回心に至る恵みを祈り求めましょう。

2020年12月04日