年間第25主日の勧めのことば(北村師)

年間第25主日 マタイ20:1-16

今日読まれた福音は、神の国についてのぶどう園の労働者のたとえ話です。この個所は、マタイ固有の箇所であり、おそらく「このように、あとにいるものが先になり、先にいるものが後になる(20:16)」が結論になっていますので、アブラハムを通して約束を受けたユダヤ人が後になり、イエスさまの福音の受け入れた異邦人が先になるということを言おうとしたのだと思われます。しかし、朝から働いたものも、夕方5時から働いたものも同じ賃金をもらうという点をみると、どちらが前で、どちらが後かということを問題にしているのではないようにも思えます。それでは、このたとえ話しが言いたいことは何なのでしょうか。

そのヒントは、朝から働いた労働者のことばの中にあると思います。「最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。(20:12)」。わたしたちは、彼らの言い分は当然だと思いますし、これが社会の中で行われれば、労働争議になるような問題です。でも、イエスさまはこのたとえを話すことで、われわれ人間の視点とは全く違った、神の視点を伝えようとしておられるのだと思います。

現代社会は、まさに暑い中を辛抱して「頑張るものが報われる社会」を目指して、どんどん進んできました。しかし、頑張れない人はどうすればいいのでしょう。頑張りたくても頑張れない人もいるし、元々頑張れない人もいます。個人的なことになりますが、わたしはこの「頑張る」ということばは好きではありません。わたしは小さいときから、元気に育ってくれたらそれだけでいいぐらいの感じで、「頑張れ、頑張れ」と両親から言われることもなく、割かしのほほんと育ちました。しかし、わたしが青春期にカトリック教会に入信し、ほぼ同時に司祭職への召命を頂いたころから、わたしは頑張ることはよいことだというような価値観に染まっていきました。おそらく、キリスト教の雰囲気や影響も、わたしがまだ若かったということもあるのでしょう。だから、神学校生活の6年間、司祭叙階後25年、頑張ることはよいことだと信じやってきました。しかし、その先に待っていたものは、母の死と自分の病気でした。それで、しばらく静養しなければならなくなり、今もその病を抱えていますが、病気のひどいときは、何もできず、ミサをすることも、祈ることも出来ず、ただ寝ていることしかできませんでした。しんどくて、イエスさまの「イ」も出てこない生活が続きました。わたしは、全く頑張れない人間になってしまいました。それでも何とか息をして、一日が終わってゆく。そのような病の中で、たとえわたしが、何が出来ても出来なくても、良くても悪くても、そんなことに関係なく、イエスさまはわたしを愛しておられるのだということに少しずつ気づかされていきました。「わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ(14)」という温かいイエスさまの言葉が、改めてわたしの心に響いてきました。実に、イエスさまの真の愛と出会うためには、長い時間が必要でした。イエスさまのことを、頭では神学的には理解しているつもりでしたが、やはりわたしの中では、自分が頑張ることはいいことで、そのことは当然のことなのだという思い上がりが自分の中にあったのだと思います。もちろん、今もそれがなくなったわけではありませんが。

福音書の中のタラントのたとえ(25:14~30)では、良い人や能力は生かさなければならないという印象を受けますが、今日の箇所は、その人の善悪や能力のあるなしに関わらず、全ての人を一切問わず、選ばず、嫌わず、見捨てないで一切平等に接していかれるイエスさまの姿というものが見えてきます。頑張るものが報われるとか、努力したものが評価される世界とは全く違う世界がある、そのようなイエスさまの視点があるということを教えられるような気がします。全てを生かして、何も見捨てることがない。もちろん何をやってもいいというわけではありませんが、このイエスさまの眼差しに触れるとき、わたしたち人間が、いかに活動や経済、評価や効率、人の目ばかりを追い求め続けてきたか、またそのような物差しを信仰生活の中にも持ち込んできたか、わたしたち自身が人間中心の物差しというか、闇というか、愚というものを抱えているかが明らかにされるのではないでしょうか。

人間の愚ということに目覚めるとき、自分がこれは正しいという思いそのものが、迷いであり、闇であることが明らかにされていくように思います。実はわたしたちを苦しめているのは、他の誰でもない、わたしたちの思い込み、自己執着なのだということに気が付かされます。そこで、イエスさまの愛に触れることによってのみ、新しい世界が見えてくるということなのでしょう。わたしたちの人生は自分の思い通りにならないことの連続です。それはわたしたちの人生で、必ず起こってきます。そのような人生の中で、わが身に起こってきた出来事が自分の人生を狂わせたと自分の外に責任を転嫁して終わらせるか、それともその現実を受け止めて、そこから生き方を問い直し、学んでいくかが問われていると思います。わたしたちは、闇であるから、愚であるからこそ、光を感じ取ることができるのだと思います。そのような世界に触れさせていただくことが出来るのが、今日の福音であるように思います。

2020年09月18日