復活節第5主日 ヨハネ 14 章 1~12 節

復活節第 5 主日 ヨハネ 14 章 1~12 節

今日の福音の中でイエスさまは、「わたしは道であり、真理であり、いのちである」と言われました。5 月に入りましたが、季節は典礼的には復活節であり、聖霊降臨に向かって、イエスさまの復活を記念していく大切な季節です。そこで、改めて復活の光の下で、イエスさまが「わたしは道、真理、いのち」と言われたことの意味を考えてみたいと思います。

まずイエスさまは「いのち」について、ヨハネ福音書の中で、次のようにはっきりと言われています。「永遠のいのちとは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたをお遣わしになったイエス・キリストを知ることです(ヨハネ 17:3)」 つまり、永遠のいのちとは、今、既にわたしたちが、イエスさまを知り、信じていること、そのものが永遠のいのちであると言わたのです。死んでからの話ではありません。キリスト教は、わたしが善行を積んで、聖人になって、天国へ行くことを教える宗教ではありません。このことを先ずしっかりと押さえておきたいと思います。しかし、あえて言うならば、わたしたちはイエスさまを既に知り、信じているという意味で、この地上で天国を生きているとは言えるでしょう。天国は、後の時代の教会が作り出した教義です。

今日の福音の中でフィリポがイエスさまに、「主よ、あなたがどこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません」と問い、「わたしたちに御父を、つまり神をお示しください」と言っています。それに対して、イエスさまは、「あなたがたはわたしと出会って、関わっているではないか。それなら、あなたは、わたしがどこへ行こうとしているか、その道を、神がどなたであるかも分かるはずだ」と答えておらます。何故ならば、イエスさまご自身が真理そのものだからです。「律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れた(ヨハネ 1:17)」と言われています。つまり、モーセの律法を守って義とされる時代は終わり、イエスさまを通して、全人類に恵み、つまり永遠のいのちが既に無償で与えられた。このことこそが真理、真実としてわたしたちに完全に示されていると言われるのです。

この真実をイエスさまによって知らされ、信じさせて頂くこと自体が、「永遠のいのち」-つまりこれが恵みであり、わたしたちが「お恵み」と言っているような陳腐なものではなく-であり、これを知らされ、信じさせて頂いて、生かさせて頂くわたしたちの人生が、イエスさまも人間として歩まれた道であり、そこに真理、真実があるのです。そして、このイエスさまを知らされ、信じさせて頂いている前提となることが、イエスさまがわたしと出会うということなのです。

では、初代教会では、どのようにイエスさまは人々 と出会っていかれたのでしょうか。生前のイエスさまと実際に出会った人たちはごくわずかでした。しかし、イエスさまが死んで、復活されることで、弟子たちは復活されたイエスさまと再び出会い直す必要がありました。なぜなら、復活されたイエスさまが、イエスさま自身だと弟子たちには分からなかったのだと聖書に書かれています。つまり、弟子たちが知っていたのは、生前のイエスさまであって、それでは充分ではなかったからです。弟子たちは、イエスさまのことを知っていると思い込んでいただけだったのです。実際に復活されたイエスさまと出会った弟子たちは、その時に、初めて自分たちは救われた、ゆるされた、癒されたことに気づきます。そして、その喜びを誰かに伝えずにはいられなくなりました。そこで、彼らはそのことを色んな人たちに伝えていきます。そして、不思議なことに、そのことを伝えられた人たちは、彼らも復活されたイエスさまと出会うという体験をしていきます。そのようにして、復活されたイエスさまと出会った人たちの輪が広がっていきました。そして、その人たちの集いが教会共同体を形成していったのです。ですから、教会は建物や組織、制度ではなく、儀式を行うことに留まりません。今、今コロナウイルスが世界を覆い尽くし、組織として集まり、ミサもすることができません。でも、復活されたイエスさまと出会ったわたしたち教会共同体は、存在しているではありませんか。

復活されたイエスさまと出会った人たちは、何が永遠のいのちで、何が自分たちの歩む道で、何が真理かを知っています。もし、それが分からないとしたら、それはわたしたちの心の頑なさか、あるいは今までの思い込みが、わたしたちに真理を見ることを妨げているのでしょう。わたしたちは既に真理の内にいます。わたしたちは既に永遠のいのちに飲み込まれています。まだ、人間の救いのために、わたしたちは何か働きかけることが必要でしょうか。復活節のこの時、静かにわたしたちの心に問いかけてみましょう。

2020年05月06日