年間第14主日の勧めのことば(北村師)

年間第14主日 マルコ6章1~6節 

今日の物語は、イエスさまが故郷のナザレにお帰りになったときの出来事です。ここでは、故郷の人々の不信仰ということがテーマになっています。故郷の人々の不信仰ゆえに、イエスさまは“何も”奇跡をすることがお出来にならなかったと記されています。イエスさまは、全能の神さまです。それなのに、奇跡が出来ないとはどういうことでしょうか。また、故郷の人々の不信仰というのはどういうことでしょうか。

そもそも、マルコ福音書で、イエスさまのガリラヤでの活動は、病人を癒し、悪霊を追放することに費やされています。しかし、そのような出来事について、「奇跡」ということばは一切使われていません。とういうことは、マタイ福音書においては、いわゆるわたしたちが考えるような、“奇跡”自体には、関心がなかったのではないかということです。奇跡は、人間の力や自然法則を超えた現象として説明されます。マルコ福音書の中で、「奇跡」ということばは4回出てきますが、いずれも人々が、イエスさまのしておられることを見て、奇跡だと言った人間の側の反応について、奇跡ということばが使われています。マルコが伝えたかったことは、奇跡を行う人としてのイエスとか、治癒神としてのイエスではないということが分かります。つまり、いわゆるわたしたちが思っているような奇跡について、マルコは関心がなかったということです。

イエスさまがなさったことは、病人や悪霊に憑かれている人を癒すことによって、神の国の福音を述べ伝えることでした。「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい(1:15)」。しかし、その神の国を人々に宣べ伝えるためには、目の前で色々な病や大変な状況で苦しんでいる人に対して、神の国について話したところで、何も伝わりません。ですから、イエスさまは、病に苦しむ人、悪霊に憑かれて苦しんでいる人を、先ずその苦しみから解放されました。わたしたちも病気を抱えていたり、いろいろな問題を自分の内外に抱えているとき、そのことで頭が一体で、自分のこときりしか考えられません。たとえ、イエスさまと出会っても、イエスさまから何を聞いても、自分の中には何も入ってきません。自分のことで精一杯ですから、イエスさまが入っていく余地がないのです。だから、その人たちを癒すことで、神さまがおられて、あなたがたを愛しておられること、イエスさま自身が来られたことで神の国がすでに始まっていることを、先ず自分の身をもって体験できるようにされました。それで、初めて「ああ、自分を癒してくださった方は、何者なのだろか」と考え、イエスさまを受け入れる隙間が出来るのです。その意味では、イエスさまが病人を癒し、悪霊を追い出しておられたのは、その人が、イエスさまと出会うことが出来るための場所を作っておられたと言えるでしょう。聖書を読むと、治癒神としてのイエスさまの姿が前面に出てきます。だから、キリスト教、特にカトリック教会は、そのような奇跡や出現、ご利益を信じている荒唐無稽な危険な宗教だと思われてしまいます。もちろん、イエスさまが、その人と出会うためなら、奇跡も行われるでしょう。でも、その人と出会うために、奇跡が必要でなければ何もなさいません。だから、奇跡だけをイエスさまに求めるなら、それは別の宗教になってしまいます。

もう一つの難しさがあります。イエスさまの故郷の人々は、小さいときからイエスさまのことをよく知っていました。母親のことも、兄弟姉妹のことも知っています。「この人は…マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか」と言います。故郷の人々は、イエスさまのことをよく知っていたのです。また、マルコ3章では、「身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。『あの男は気が変になっている』と言われていたからである(3:21)」とも書かれています。この箇所は、マルコ福音書だけにあって、他の福音書では省かれています。そのことからも、イエスさまのしておられることは、身内にとっては恥であり、母親、兄弟姉妹で、イエスさまを取り押さえに来たということなのです。彼らは、イエスさまのことを誰よりもよく知っていていたはずです。だから、イエスさまのしていることは、「気が変になっている」としか思えなかったのです。このように、故郷の人々、身内の人たちは、自分はイエスさまのことを知っているという思い込みが、イエスさまとの出会いを妨げてしまったということになります。

不信仰という問題は、神さまを信じていないとか、教会に行っていない、熱心でないというようなことではありません。不信仰というのは、まさにわたしの問題なのです。つまり、わたしの中で、イエスさまとの真の出会いを妨げているものは何かを問うことだと思います。イエスさまが、わたしたちと出会いたいと思われても、わたしたちの方が出会おうとしないのであれば、すれ違ってしまいます。馬に水を飲ませようと水場に連れて行っても、馬が水を飲みたくなければ、水を飲みません。それと同じように、どんなにイエスさまがわたしたちと出会うことに飢え渇いておられるとしても、わたしたちがイエスさまに飢え渇いているのでなければ、その出会いは成立しないのです。ナザレの人々は、自分たちはイエスさまのことを誰よりもよく知っているという思い込みが、イエスさまとの出会いを妨げてしまいました。だから、イエスさまは、何もお出来になれませんでした。それではわたしたちにとって、イエスさまとの出会いを妨げているものは、一体なんでしょうか。

それは、過去の教会やわたしの作り出したイエスさまのイメージにしがみつき、本当のイエスさまを知ろうとしない無知、不遜さではないかと思います。それがわたしたちの不信仰の実態でしょう。イエスさまは、愛の神でいらっしゃいますから、わたしたちを愛し、わたしたちとの出会いに飢え渇いておられます。そして、イエスさまは、ご自分がわたしたちを愛しておられるとの同じように、自分もわたしたちから愛されることに飢え渇いておられます。それでは、わたしたちが、イエスさまを愛するとは何でしょう。それは、イエスさまが、わたしたちを愛することです。イエスさまがわたしを愛したいように、愛させて差し上げることです。つまり、イエスさまがわたしを愛しておられることを、わたしがそのまま受け入れることなのです。そのことが、イエスさまの最上の喜びとなるのです。なぜなら、イエスさまは、愛そのものでおられますから、愛さないでいるということは、イエスさまにとって苦しみでしかありません。愛が、愛せない、これほどの苦しみがあるでしょうか。

しかし、わたしたちは,いやいやわたしはイエスさまに愛されるのにふさわしいものではありませんとか、イエスさまに愛されるためには、ゆるしの秘跡を受けて清くならなければなりませんとか、いやイエスさまから愛されるために相応しくなるために、努力して頑張って、立派な信者にならなければなりませんとか、もっと祈りと犠牲をしてイエスさまに認めてもらわなければなりませんとか、様々な言い訳をして、イエスさまの愛を受けようとしません。確かに、わたしはイエスさまに愛されるために相応しい人間ではありません。わたしは罪人です。どんなに努力して頑張っても立派な信者になれません。たくさん祈りをして犠牲をしても相応しい人間になれません。イエスさまの前には、わたしたちは、罪人、ちり、あくたでしかないのです。先ずは、わたしが、自分の貧しさや愚かさ、罪を受け入れることが、すべての土台となります。しかし、イエスさまは、わたしの貧しさや愚かさ、罪など百も承知の上で、一切関係なく、今の、そのまんまのわたしを愛しておられます。何度でも言いましょう。イエスさまは、あなたを愛することに渇いておられます。イエスさまの愛に相応しくなるのを待っていたら、わたしたちは死ぬまで間に合いません。それなのに、わたしたちはイエスさまの思いを理解しようとしないで、自分の思いで一生懸命になっています。唯、愚かで無知としか言いようがありません。イエスさまは、わたしが別のわたしになることを望んでおられません。イエスさまは、今のままのわたしを愛しておられます。その愛を受け取ってほしい、つまり、わたしがイエスさまから愛されるままになることに、イエスさまは飢え渇いておられるのです。イエスさまの愛を信じるために、わたしたちが変わる必要はありません。イエスさまの愛を信じることが、わたしたちを変えていきます。それが、イエスさまを信じるということなのです。わたしたちが、イエスさまに飢え渇くものとして造られていることを信じ、わたしが、わたし自身を虐めるのを止めて、自分を大切にして、認めて、肯定してあげること、それがイエスさまを愛することなのです。

2021年07月02日