年間第29主日 マタイ22章15~21節(北村師)

年間第29主日 マタイ22章15~21節

今日の箇所は、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に帰しなさい」というよく言われる有名な箇所です。ことの発端は、ユダヤ人としてローマ皇帝に税金を納めることが律法に適っているかどうかという、ファリサイ人の意地悪い質問から始まります。そこにはファリサイ人のたくらみがあって、もしかなっていると言えば、神格化されていたローマ皇帝を認めることになり、神を冒涜することになる。反対に納税しなくてもよいと言えば、ローマ帝国への反逆者として訴えることができる。そのようなファリサイ人のイエスさまをおとしめようという意図から出た質問だったわけです。しかし、イエスさまはその質問に直接答えることなく、問題をもっと深めていくというか、そのような人間の心のあり方を問いかける機会としていかれます。「これは誰の肖像と名か」、つまり「これは一体誰のものか」と。所有するとは何かと。

そもそもわたしたち人間自身、大自然の一部であり、これはわたしのものといえるものは何もありません。例えば、わたしは、自分の体やいのちは自分のものと思って生活しています。しかし、わたしたちは、自分の力で老いを止めたり、病をなくしたり、いのちを長くも短くもすることは出来ません。何一つとして、わたしたちは自分の思うようには出来ません。だから、実は、この体もいのちもイエスさまから与えられているもの、お預かりしているものであり、実際はイエスさまのもの、もっと言えば、イエスさまご自身であると言えるでしょう。しかし、そのことに気づかず、わたしは自分の所有物であるかのようにふるまっています。病気になったり、老いてくると、自分の思い通りにできなくなりますから、そこで、体もいのちも自分のものでなかったことに気づくわけです。人の死はその最たるものでしょう。

さらに、ユダヤ・キリスト教の伝統で、人間以外の被造物は神が人間のために創造し、その支配を人間に任せたという発想があります。最近になって、カトリック教会もエコロジーということを言い始めました。年間のミサの叙唱4に、「こうして人間は造られたものを、すべて支配し…」という、人間は万物の霊長だという主張が出てきます。教会で最近、「ラウダ―トシ」という回勅が出ました。だから、教会の中でも、今「ラウダ―トシ」が旬で、ラウダ―トシ年が定められたり、あちこちで勉強会が開かれたりしています。しかし、そもそもアジアの諸国、そして日本では、仏教の教えの中で「一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)」と言って、あらゆる生きとし生けるものは、ことごとく仏性、つまり神のいのちが宿っているということが教えられてきました。だから、無益な殺生を戒めてきました。

金子みすゞの詩に大漁というのがあって、「朝焼小焼だ 大漁だ 大羽鰯の 大漁だ 浜はまつりの ようだけど 海のなかでは 何万の 鰯のとむらい するだろう」というのがあるのをご存じでしょう。日本人は、そのような感性を生まれながらにしてもっています。日本人は、江戸時代まで自然と共生して生きていました。しかし、明治時代になって、欧米の文化が入ってきますが、その文化を支えていたのがキリスト教でした。そして、全世界に、日本の中にも産業優先、消費、使い捨ての文化があっという間に広まっていきました。ヨーロッパの産業革命、消費、使い捨ての文化の根底にあるのは、人間以外の被造物は、神が人間の便宜のために与えたという発想です。少なくとも最近まで、キリスト教はそのことへの反省は何もありませんでした。そして、今頃になって「ラウダ―トシ」とか言い出しました。

今日のイエスさまの言葉は、この貨幣には誰の名が彫ってあるか。それが皇帝なら、皇帝のものなのなのだから、皇帝に返しなさい。神の名が彫られているなら、それは神さまのものだから、神さまに返しなさい、と言われたのです。この世界は全て、神の名が刻まれています。だから、神さまにお返しするのは当たり前ではないかと、イエスさまは言われるのです。人間が、これはわたしのものだと主張できるものは何もありません。わたしの体も、わたしのいのちも、他の人の体もいのちも、そして、生きとし生けるすべてのいのちもそうです。だから、他者を傷つけることは自分を傷つけることであり、他のいのちを傷つけることは自分を傷つけることです。また、自分を傷つけることは相手を傷つけることであり、他のいのちを傷つけることになります。自傷即他傷、他傷即自傷と言われることです。そして、特にわたしたち人間は、他のいのちを分けてもらう、殺して頂くことによってしか生きられない存在です。そこには必ず殺という現実が絡んでいます。人間以外の生き物は、無益な殺生やいのちを乱用することはありません。人間だけが、無益な殺生やいのちを乱用してきました。その現実を謙虚に受け止めなければならないと思います。わたしたち人類、そして生きとし生けるものには神の名が刻まれています。それは、お互いがいのちを分かち合って生きるためです。しかし、人間は、自分がこの世界の支配者のようにふるまってきました。しかし、わたしたちが、全世界はイエスさまからの贈り物で、イエスさまのいのち、神のいのちを宿していることを心にとめていくとき、現代社会の経済、産業、政治、医療、教育などの全ての人間の活動を、新しい視点で見直していくことができると思います。

2020年10月23日