王たるキリスト すすめ

今日は「王であるキリスト」の祭日で、今日のテーマは「王」です。
今日の福音から、テーマである「王」という意味を考えてみたいと思います。

現代の私たちには、「王」と言われてもピンと来ません。しかも、今日の福音は、十字架上のイエスについて描いています。今日の福音のイエス様は、人々からあざ笑われ、侮辱されています。一緒に十字架に架けられていた犯罪人からさえもののしられています。確かに、イエス様の頭の上には「ユダヤ人の王」という札が掲げられていますが、何故、このようにあざ笑われたり、侮られたりされたのでしょうか。それは、イエス様が、人間的に考えられる「王」で全くないからです。むしろ、イエス様は、多くの人々が期待した王様とは
全然違ったので、侮辱され、最終的には十字架に架けられることになってしまいました。
今日の「王」というテーマは、人々がイエス様に求めていたことは何だったのか、あるいは、私たち一人ひとが何を求めているのか、何をイエス様に期待しているのか…という大きなテーマに発展していくと
思います。

大半の人々はイエス様が期待通りの「王」でなかったことにがっかりし、イエス様を侮辱しましたが、私たちは、イエス・キリストをどういう方と受けとめているのでしょうか。今日の福音は、私たちに、このような深い
問いかけを投げかけているのではないでしょうか。
今日の福音に登場する、十字架上の2人の犯罪人は、私たちの心を象徴的に表しています。
一人の犯罪人は、イエス様に「お前はキリスト、王ではないのか。お前は自分自身と俺たちを救え」と
言います。 私自身、祈る時、「神様なら、言い換えると『王様』なら、こうしてください…こうしてくださいますよね」とか祈り、願っていることが度々あります。そして、それが叶えられないと勝手にがっかりし、信仰の
揺らぎさえ感じることがあります。私は、イエス様、神様に、何を期待しているのでしょうか。物事が順調に
スムーズに運ぶこと、自分の期待や願いがかなえられること、仕事や健康に恵まれ、うまくいっていると自信を持つこと、あるいは人間的な成功や名誉、地位、お金、権力というのを手にすることでしょうか。これらのことは、すべて、言うなれば、この世的、人間的な「王」につながります。しかし、私たちの人生というのは、何もかもうまくいったり、自分の思い通りにいったりしません。
そこで、そんな時、十字架上のもう一人の犯罪人の言葉がヒントになると思います。自分の期待が
裏切られたと感じる時、私たちは、否定的な思いや考えにふりまわされ、自暴自棄になることもできますが、自分の無力さを痛感して、謙虚に「イエス様、助けてください」と委ねることもできます。私たちは、もう一人の犯罪人のように、「イエスよ、あなたの御国においでになるとき、私を思い出してください」と願うことが
できるでしょうか。この犯罪人の言葉は、イエス様が本当の「王」であるということを示していると思います。イエス様は、確かに人間的な「王」では全くありませんが、神の国の「王」だということです。イエス様は、
「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と、その犯罪人が神の国に入ることを
約束されました。2人の犯罪人とイエス様の会話は、このイエス様の約束の言葉で終わっています。その
意味は、十字架上のイエス様は王様だということではないでしょうか。普通に人間が考えるような「王」ではなく、神の国の「王」だということです。それは、私たちの王様は、私たちの罪をゆるし、人生の苦しみや
十字架も共に担い、神の国に招かれるということを意味しています。なにも十字架とは大きなものとは
限りません。私たちにとって、うまくいかないこと、人間的に見ると失敗や否定的に見えることを通して、
イエス様は私たちを神の国・本当の救いに招いてくださるということだと思います。そこに、イエス様が共にいてくださり、神の本当の救いがあるということです。そのような世界をイエス様はつかさどっておられるのです。  私たち一人ひとり、日々の生活の中で、それぞれの十字架を担って、神の赦し、愛の招きに信頼して生きていけますように、今日は、あらためて、今日の福音の一人の犯罪人のように、「イエス様、あなたの御国においでになるとき、私を思い出してください」とお祈りしたいと思います。

2019年12月08日