年間第19主日 ヨハネ6章41~51節

年間第19主日 ヨハネ6章41~51節

先週の福音で、「そのいのちのパンをわたしたちにください」と言う人々に対して、イエスさまは、「わたしがいのちのパンである」と言われます。あなたがたが求めているパンは、わたし自身である。わたしは、今、あなたがたとともにいるではないか。それなのに、あなたたちは、これ以上わたしに何を求めるのかと言われます。それでも、人々は、イエスさまがすでに、いのちの源として、永遠のいのちとして人々とともにおられることに気づこうとしません。というか、それほどに人間の無知の闇は深いのだと思います。それどころか、人々はイエスさまのことをつぶやき始めます。イエスさまが、自分たちの思っている通りのイエスさまでないということなのでしょう。

感謝の祭儀は、二千年前に、イエスさまの死と復活によって、一度切りで成し遂げられたイエス・キリストの救いの出来事を記念し、感謝して祝います。感謝の祭儀を行うことによって、救いの恵みが来るのではありません。イエス・キリストによって、すでに、完成された救いの恵みが、今もわたしたちの上にも働いていること、及んでいることを、具体的に目に見える形で祝うのが秘跡としての感謝の祭儀です。ですから、感謝の祭儀は、わたしたちが救いの恵みを受ける場というより、すでに実現している救いの恵みを感謝する場です。コロナウイルスが広まり、ミサが中止されたら、イエスさまの救いの恵みが無効になり、無くなるということではありません。わたしたちが感謝するその場が、一時期、なくなるだけのことなのです。わたしたちは、長年の間、とても大きな勘違いをしてきたのではないでしょうか。わたしたちは、ミサがなくなったことにつぶやいているとしたら、それは何のためでしょうか。それだけなら、パンを求めて集まってくる群衆と同じではないでしょうか。わたしたちは、大変な的外れなことをしているのではないでしょうか。

イエスさまは、「父が引き寄せてくださらなければ、誰もわたしのもとに来ることはできない」と言われました。確かに、イエスさまのもとに来なければ何も始まりません。しかし、引き寄せてくださるのは、神の働き、イエスさま自身であると言われます。ですから、信じるのはわたしたち自身ですが、信じる心を引き起こすのはイエスさま自身であることが改めて強調されます。それでは、わたしたちは、一体何を信じるのでしょうか。それは、イエスさまがいのちのパンであり、「ともにおられる神」としてすでにわたしたちとともにおられるということです。そして、そのことを信じているわたしたちは、すでに永遠のいのちを生きている、救われてあるということです。なぜなら、イエスさまは十字架に付けられて死に、復活することによって、わたしたちとともに永遠におられる神となられたからです。わたしたちの問題は、光の中にあって、光を捜すような、大海の中にあって、海を捜すようなことをしているということなのです。二千年前にイエスさまが死んで、復活されたということは、イエスさまの十字架の死と復活によって、全人類がすでに救われて、イエスさまのみ手の中にあるということなのです。その状態が、わたしたちがすでに光にうちにあること、大海のうちにあることであると言っていいでしょう。

昨日と同じように日が昇り、雨が降ります。その日は、善人の上にも、罪人の上にも登ります。貧しい人の上にも、豊かな人の上にも等しく登ります。日の光は、何も一切区別をしません。区別を作り出しているのは、人間の知性、分別であり、人間が貧富の差、支配・被支配、格差、差別、競争、貧困、などのありとあらゆる問題を作り出しているのです。イエスさまは、決してそれを容認されません。そうではなく、ご自分の一切平等ですべてを救うご自身の姿を示すことで、人類にそのあり方を問うておられるのです。ですから、イエスさま自身は、決して、貧しさや貧困、抑圧や差別を容認されません。いつも、イエスさまは、もっとも弱い立場にある人たちの側に立たれます。それは、その人たちが、声をあげることすらできないほど、貧しくされているからに他なりません。そして、そのような状況を作り出している人間自身の闇に、自らが気づくことを望まれたのでした。その上で、イエスさまは、差別される側の人も、差別する側の人もともに救われる世界、神の国の到来を宣言されました。豊かな人だけが救われて、貧しい人や罪人は救われないような不正義な世界ではなく、かといって、貧しい人や罪人が救われて、豊かな人や支配者は罰せられるというような勧善懲悪の世界でもなく、そのような差別、区別、分別を作り出している人間の業というか、闇というものをあわれんで、その浅ましく、愚かな人間すべてが等しく救われていく世界をこそ、イエスさまは望まれたのです。それが神の国と言われ、神の国は、イエスさまの人類の歴史への到来によって始まり、その生涯とその死と復活によって完成され、すべての人類はその救いの光のうちに置かれています。しかしながら、それが分からず、相変わらず区別、差別、分別、搾取等を作り出し続けているのが、人間の罪、闇ということでしょう。だから、イエスさまが、引き寄せてくださらなければ、誰も自分のところに来ることはできないと言われたのです。わたしたちは、誰もイエスさまに出会うことなしに、自分の愚かさ、闇、罪ということを知ることは出来ません。イエスさまに出会うときに、初めて自分が救われなければならない罪人であることが知らされ、同時に、イエスさまによってすでに救われていることにも気づかされていくのだと言えるでしょう。感謝の祭儀は、すでに救われていることに気づかないわたしたちに、あなたがたはもうすでに救われているのだということを思い起こさせてくださる場であり、また、わたしたちが救われていることを感謝する場であり、神の国の建設のために派遣される場でもあるのです。

イエスさまは、わたしたちが救われているということを、「信じる者は永遠のいのちを得ている」と言われました。つまり、イエスさまの死と復活によって、イエスさまは、わたしたちとともに永遠におられる神となられ、イエスさまのうちにわたしたちは生きているのだということです。ですから、わたしたちは、すでに救われてイエスさまのうちにあることに気づかされ、その真実を知らされたことを、「永遠のいのちをすでに得ている」と言われたのです。わたしたちは、今、イエスさまのうちに生きているのです。だから、信じることによって永遠のいのちを獲得するのではなく、すでに永遠のいのちのうちにわたしたちがあることに気づくということが、信じることに他なりません。大海を泳いでいる魚が、実は自分が泳いでいるところが海であったことに気づくのと同じです。ですから、永遠のいのちは、死後のいのちではなく、わたしたちが、今、生きているいのちそのものに他なりません。しかし、教会は-イエスさまが決して教えなかったこと-つまり、この世は辛くても、来世には永遠のいのちが約束されているというようなことを教えてしまいました。永遠のいのちを、死後のいのち、「あの世」のことを現わすものにしてしまったのです。それは、「この世」が思い通りにならないので、「あの世」のことを持ち出すことによって、「この世」のどうしようもないことを慰め、我慢させるために、永遠のいのちを使ってしまったということです。イエスさまのいう永遠のいのちは、「あの世の」ことではありません。イエスさまによって、わたしたちの一生、わたしたちの生も死もすべてが包みこまれているのです。そして、そのイエスさまが永遠のいのちそのものですから、わたしたちは、今すでに、永遠のいのちを生きているということです。思い通りにならない、苦しみの連続である「この世」において、イエスさまがわたしたちとともに歩んでくださっていることに目覚めさせていただくことが、救いなのです。悲しいから、苦しいから、イエスさまを信じて、死後に永遠のいのちを求めるのではないのです。今、ここで、わたしたちとともにいてくださるイエスさまに出会わせていただくことが、永遠のいのちそのものなのです。だから、たとえ肉体の死がわたしたちに訪れたとしても、わたしたちにとって死はないのです。イエスさまが、「このパンを食べるものは死なない」と言われました。これは感謝の祭儀で聖体を拝領するものに約束された言葉ではなく、全人類、全世界は、イエスさまによって計らわれ、生死を超えたところで、生かされているのだということに他なりません。そのことに気づかされた人々が、心からの感謝として祝い、その真実を宣言する場が、感謝の祭儀でもあるのです。

2021年08月07日