2022/12/26 えくれしあ 巻頭言(北村師)

「初めに言があった」
言は神と共にあった。言は神であった…言に内に命があった…言は肉となって、わたしたちのうちに宿られた。
(ヨハネ1章)

北村 善朗

ヨハネ福音書第1章は、キリスト教の宗教としての本質が述べられています。そこで言われていることは、みことばが最初にあり、そのみことばは神であり、大いなるいのちであること、そして、みことばはわたしたち人間となることによって、わたしたちを大いなるいのちで満たし、わたしたちを救うということです。もっと端的に言うならば、みことばは「わたし」となることで、「わたし」を救われたということです。なぜ、わたしを救おうとされるのでしょうか。それは、いかなるものによっても救われ難いものがわたしであり、その度し難いわたしを救おうとされることが、大いなるいのちの願いだからです。救いというものが何であるかは、大いに議論のあるところですが、わたしたちの多くは、自分の思いが叶うとか、病気が治るとか、自分の考える幸せな有意義な人生を送れることが救いであると考えがちです。しかし、わたしの思いや願いが叶うことが果たして真の救いなのでしょうか。そして、救われたいと思っている「わたし」とは一体何なのでしょうか。そのことを問い直す必要があるのではないでしょうか。

わたしたちは、「わたし」ということに拘り、何ものかを「わたし」であると思い込んで、「わたし」が考えることが真実であると思い込んでいます。それが「わたしたち」、家族、地域、国、宗教であっても同じことです。そして、「わたし」「わたしたち」が何ものかを真実であると思い込んでいることが、この世界のありとあらゆる問題を作り出しているのではないでしょうか。ですから、あえて言うならば、救いとは、「わたし」というものが絶えた世界であるといえると思います。そのように考えると、一体だれが何を救うのかということが問題になってきます。結局のところ、そのような度し難いわたしが解放されること、別の言葉で言うならば、わたしが救われることが、世界が救われることでもあるのです。なぜなら、この世界をこのような世界にしてしまったのは、他のだれでもない「わたし」だからです。そのようなわたしが、他者を救おうなどと考えることほどおこがましいこと、愚かなことはありません。そして、どこまでいっても「わたし」に拘り続けるそのような愚かなわたし自身が迷いであるということをわたしたちは、主の降誕の祝いを通して知らされるのではないでしょうか。「言は肉となって、わたしたちのうちに宿られた」という主の降誕の神秘は、神がそのような愚かなわたしとなってくださったことを祝うことに他なりません。  (えくれしあ381号20221224 巻頭言)

2022年12月26日