20250928 お説教 鶴山師
アモス6:1a,4-7 ルカ16:19-31
鶴山師
この1か月、フィリピンで大規模なデモが起こっているようです。ニュースの動画を見ておりますと、洪水対策として、国が予算を支出していたにもかかわらず、事業は進んでいませんでした。 そうした中、使われるはずの予算が政治家に流れているとの疑惑が浮上し、国民は不満を募らせました。そんななか7月、マルコス大統領が「独自で調査したが汚職が明らかになった」と公表したことで、デモに発展したようです。デモ参加者は「私たちは貧困にあえぎ、家や命、未来を失っているのに、彼らは私たちの税金で高級車や海外旅行、大きな企業取引で巨額の富を得ているのが悔しいです」「私たちは政府に対し、この汚職に関与した全ての人物に責任を取らせるよう求めています」と話しました。
では今日の福音、20節を見てみましょう。「この金持ちの門前にラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた」。イエス様はこの金持ちをラザロが貧しく苦しんでいるのを知っていたが、その苦しみに無関心だった人物として語っています。 今日の第一朗読のアモス書では、紀元前8世紀の北イスラエル王国、南ユダ王国それぞれの国の支配者の贅沢な暮らしぶりが描かれていますが、福音書の金持ちとその姿が重なります。 そもそもアモス書は格差の問題を指摘しているという特徴があります。富む者は際限なく富を求め、貧しい人々の生活はどんどん苦しくなる。
今日の福音を黙想する中で、富む者は際限なく富を求め、貧しい人々の苦しみに無関心、貧しい人々の暮らしはどんどん苦しくなる。このテーマを黙想する中で、フィリピンのデモのニュースのことをすぐに思い浮かべました。この問題は古今東西あるんだということを改めて思います。でも希望もあると思います。ジャーナリストが真実を追求し、問題を明らかにしたこと。人々がおかしいと声を上げたこと。ゆっくりとした歩みではありますが、事態を改善していくこともあり得るということですね。
それともう一度、20節を読み直してみましょう。「この金持ちの門前にラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり」。私はこの個所から、他者の苦しみ、特に身近な人の苦しみに無関心ではないだろうか、ということについて考えたいと思います。私このテーマを黙想した時に思い出したことがあります。
1970年の5月に横浜市内である母親が障がいを持った子供さんを殺めてしまうという事件が起こりました。そのご夫婦には3人の子供さんがいたわけですが、子どものうち2人に障がいがありました。単身赴任の父親は週末に一時帰宅するのみで、母親が一手に介助していました。施設に預けることを希望したわけですが、空きがないと断られた。自分と娘の将来を悲観した母親は娘を殺めてしまった。 その後、町内会では母親への同情から刑を軽くする嘆願運動が起こったわけです。 しかしこの運動に「ちょっと待ってください」と考えを示した方たちがいました。青い芝の会というグループの方たちです。彼らの指摘したことの一つはこれです。引用します。〈事件が起きてから減刑運動を始める、そして、それがあたかも善いことであるかの如(ごと)くふるまう。なぜその前に障害児とその家族が穏やかな生活を送れるような温かい態度がとれなかったのだろう。私たちが一番恐ろしいのは、そうした地域の人々のもつエゴイズムなのである〉 青い芝の会の皆さんが指摘したことは、 なぜそうなったか分かりますか? 同じ町内にすんでいる身近な人の苦しみに無関心だったのではありませんか? という問いかけだったと私は理解しています。
でも私たち、どこか身近な人の苦しみに無関心、いや目をつぶって耳をふさいでいることがあると思ったんです。
参考資料
・https://youtu.be/d1Jzy8-YwJU?si=EYiieCy_a4ftMufW 洪水対策の予算が政治家へ…“汚職疑惑”に国民怒り「税金で高級車や海外旅行」大規模デモは一部暴徒化 フィリピン
FNN プライムオンライン 2025/09/22
・https://share.google/IgUHZyZe8XuWdn31a 時代の正体〈501〉横田弘さんと相模原事件【1】愛と正義を否定する 社会
| 神奈川新聞 | 2017年7月26日(水) 10:07